人にもよるのかもしれないけど、この田舎で生きていくためには、会社とか、家族とか以外の人と会議と称する機会が多々ある。
これまでは当然のことながら、リアルな会議しかなかったが、まだ活用するようになって、1年ぐらいしかたたないと思うが、ZOOMなどのオンラインミーティングが使えるようになってから、その便利さに味をしめて、そういった会議に出るたびに、オンラインでやりましょう、オンラインでやりましょうとバカの一つ覚えみたいに言いまくっている。
そう言っている責任上、出席者に、使い方を説明したり、オンラインミーティングの各種のセッティングを行うのはけっこうめんどくさい。
だけれど、これまで、自分が会議に参加するために、移動を伴って浪費していた時間に比べると全然ましなので、もうこれは一つの文化になるまでやり続けなければならないと思ってやっている。
私が住んでいるのは、スキー場のふもと。つまりは山奥のどん詰まりである。
だから、地元のムラの会議を除けば、車で少なくとも10分は移動しなくては会議場所に行けないのが通例だ。
しかも、それは単に移動時間の話であって、車を止め、会場に入り階段をあがり…なんてことをやっていると、それが15分20分と加算されていく。
それが、往復を入れれば、あっという間に30分はその時間をとられているということはザラだ。
30分と言えばそれはもうかなりの時間で、その間にできることはたくさんありすぎるわけで、もうこの失うはずだった時間が取り戻せてきているというのは、もうエクセレント!としか言いようがない。
そして、実はオンラインの会議を行うようになってさらに重要なことに気づく。
それは、この会議は本質的に重要なのかどうかということだ。
会議においてもっとも重要なことは、人と人が意見を交換し、そこである種の価値をつくることにある。
特に異なる考えをもちよってぶつけあって、きづかなかったことにきづいたり、人のアイデアに重ねて、よりいいものを生み出していくことこそが『会議』を行うことの本質だ。
単に伝達するだけなら、今ならメールやチャットで十分。つまりは一方的に相手に投げつけたり、受け取ったりするだけでいいのだ。
そこに時間を共有させている意味はまったくないし、まして、リアルに顔をあわせる意味もない。
よわい48を超え、時間の有限さを身に染みて思う。
自分の時間を少しでも取り戻し、意義ある人生にするために、オンラインオンラインと今日も呪文を唱えよる。