おそらく、今香美町は、メディアであることで世間にかなり有名になってしまった。
教育界で発生した事件のことである。
もちろん、本人の問題であることは間違いないのだが、私は、少し違った視点でこの事件をとらえている。
それは、なぜそんな事件を起こすにいたってしまったのかという背景の部分だ。
昨今、教育の現場において先生は過度なプレッシャーの中で生きているように思う。
それは保護者である。
自分の子供がきちんとした教育を受けていないという批判をことあるごとにぶつけ、先生は保護者におびえながら生きているのではないか…
そんな気がしてならない。
末の娘が小学校に通っているのだが、学校側の親に対する気の使い方が尋常ではない気がするのだ。
その責任の一端は我々にもある。
PTAは、parent‐teacher associationの略だ。
親の中にあるさまざまな意見をparentが一元的にとりまとめ、その代表がteacherの代表である校長と対峙し問題を解決していく…
というのが本来あるべき姿なのだろうと思う。
国会が、国民の代表である議員が集まって法律をつくっていくようになっているのは、それが1億人という国民の意見を束ねるために合理的なわけで、もしこれが直接民主主義のように1億人すべての意見をくまなく聞いてしまうと、とてもではないが収拾がつかなくなってしまうだろう。
それと同様で、意見の集約を見ることなく、思い思いに親が直接的に学校側にぶつけていくので、それを収拾させるために、精神的にズタズタになっている面があるのではないか…。
だから、親は親どおしでしっかりと意見を重ね、行き過ぎなところはそういった親たちを揶揄したり、議論を重ねて導いたりすることをもっとしなくてはいけないのでないか…
そういう機能不全な状況が、もしかしたら、今回の事件の背景にあるのではないか…そんな気がしてならないのだ。
私たちが完璧にものごとがすすめられないのと同様に、教員とて完璧であるはずがない。
お互いに信頼しあい、そして、お互いに学びあいながら、成長を続けていくことが今の教育に必要なことなのだと思う。
そうであるならば、単なる批判に終始するのではなく、自分たちの足元を見て、まず自らが襟を正さなければならないのではないか…
そう思うほうが、解決の糸口をみつけられるような気がする。
子どもたちのケアのために、スクールカウンセラーを置くということだ。
しかし、この問題を親が家庭内で、『あの先生は…』『今の教育は…』そんなふうにして会話してしまったら、子供はそれこそ学校に行くことが不安でしかない。
まずはそんな話題を家でしないことが最も大事なことだ。
信頼できないのではなく、信頼するために私たち親に何ができるのか…。
そういう話し合いのほうが建設的で前向きな気がする。