運動会はなぜ特別なんだろう | ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

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どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

 

 
 
昨日は、娘の通う小学校の運動会。
いつもなら、地域の運動会と合同でやる運動会なのだが、今年は新型コロナウイルスの影響を懸念し、地区の運動会は中止になってしまった。
 
そして、いつもなら妻が作るお弁当箱を広げて、みんなでワイワイやるランチもなくなってしまったのはとても残念だったけど、でもやはり運動会は私や家族にとって、そして地域にとって特別な時間。
 
これだけ郷土愛を感じれる行事は、運動会をおいてほかにはないような気もする。
 
 
さて、こどもの演技に一生懸命声援を送りつつ、実はこんなことが頭をよぎっていた。
 
この時期になるとメディアでは、こんなことが言われたりする。
『運動会は軍国主義の名残であり、時代錯誤も甚だしい…』
 
駆け足、整列、礼…などのあの一連の所作のことだ。
 
私は、消防団に入団しているが、その中でもっとも苦手なのが、『通常点検』と言われるやつだ。
『気を付け』『礼』『回れ右』…
全員が掛け声にあわせて、一糸乱れぬ動きを強要されるあれだ。
 
 
子どもたちは素直だから、先生の指導に従って『ちゃんと』しているが、いいおっさんになってくるにつれ、あの動きに違和感を感じてしまう。
だから、冒頭の『時代錯誤…』だと言わしめてしまうこともなんとなく理解はできてしまうのだが、だが、もし運動会でまったくああいう所作がなかったら、いったいどうなるのだろうか…そんなことを考えたりしていた。
 
日本人の勤勉性ということがよく言われる。
震災などの報道で、炊き出しの際であったり、混雑する駅でタクシー乗り場にきちんと整列する人などなど…。
 
確かに、ああいうシーンで『ちゃんと』できる日本人は素晴らしいと思うが、ではなぜああいうふうにできるのか…ということだ。
いろいろ考えるに、日本人が昔から強要されるいわゆるあの所作に起因しているのではないか…というのが私の仮説だ。
 
もし、それが正しいのであれば、ああいう所作を学ぶことも必要なのかもしれない。
 
運動会で楽しみにしていることの一つが、幼稚園の演技だ。
うちの小学校区は、幼稚園が小学校に隣接していて、運動会は、小学校といつも一緒にやっている。
 
長年、通称、スー先生(○井先生)が指導にあたっていて、曲にあわせて園児が組体操やダンスをしているのだが、複雑なフォーメーションや動きを実にみごとにこなしているのは感動ものだ。
 
何よりスー先生が、こどもたちに愛情いっぱい注ぎ込んでいる姿が演技からにじみでていて、感動でおっさんながらに目頭が熱くなったりする。
 
園児にもそういう所作をときに教えたりしているはずだが、そう感じさせないのは、そこにきっと深い愛情があるからだと思う。
 
軍隊のように時折感じさせてしまったああいう所作の根源は、そこに愛がなかったからではないかと思う。
生きるか死ぬかの瀬戸際に放り出さされるあの世界では、一人の動きの乱れが全体の存亡にかかわる。
だから、そこには愛があるかどうかは無関係で、とにかく命が最優先される。
 
一方、社会の中にいる私たちは、大勢の前で、その場をくみ取らずに大声ではしゃいでみたりして人に迷惑をかけてはいけないということは明らかであるし、集会で自分勝手な行動をしているものは叱責されてしかるべきである。
 
そして大勢が短時間のうちに、行動していくためには規律が不要だということもないだろう。
 
大事なことは、そういう根源的なこと
『人に迷惑をかけない』『その場の空気や、流れをくみとって行動をとる』
そういったことが一人一人が理解されていることが大事だ。
いわゆる教練的な動きをさせるのは、それらを学ぶためなのだとすれば、一概に軍国的だとかたづけられるものでもない。
 
形ではなく、そこに指導者や大人としての愛があることが大事なのだと思う。
 
運動会がたとえ教練的であったとしても、そこに愛があるから、運動会に僕らはひかれていくのではないか…。
私自身はそういう結論に導いた。