最近、ずっと安宅和人さんの記事を追っかけている。
yahoo CSOでかつ、慶應義塾大学の教授。
肩書だけを見ても、ただならぬものでないことは確かだ。
私が、この人を強烈にリスペクトするようになったのは、
シン・ニホンという本を読んだからだ。
僕は田舎で生まれ、育ち、そして今後死ぬまで、そこから離れないと決めている。
しかし、世の中がつきつけてくる現実は厳しく、周りからは年々人が減っていっている。
世間では、コンパクトシティとか、そういうことを論じ、田舎はある程度淘汰し、都市機能に人を集中させて生きていくことが望ましいとしている。
強烈な都市化への人の流れが加速したのは、人類史の中からいってもほんの一時でしかない。
うちの村の近くに、5、6世紀ごろと言われている古墳がある。
こんなに雪深いところに、そのころから、もしかしたらそれ以前から、人が脈々と生き続けたことを考えると、今おきているコンパクトシティ論が本当に正しいのか…
食料供給システムが変わったからだとはいうものの、人が生きていくという何千年の歴史があるのに、今そんなものは集約されるべきだという論には、どうしても納得がいかないのだ。
そんなことをずっと思いつつ明確な答えが見つからない中にあって、シン・ニホンは、東京のようなシティとは真逆の場所にこそ未来はあると、yahooのようなITの先端みたいなところを突っ走っている人が言い放ったことに僕自身は一つの光明をみた気がした。
そんな安宅さんのインタビュー記事の中でさらに突き刺さる言葉に出会った。
『未来の話というと『どうすれば想像力が磨かれるか』と聞かれますが、想像力なんて考えるから、問題が解けないんです。未来を作るのは想像力じゃない。意志です。50年後に振り返っても自分で恥ずかしくないようにどんな未来を作るのか、あるいは200年後の玄孫(やしゃご)に自分は何を残すのかを考えるんです。作りたいもの、欲しいもの、あった方がいいものという視点で考えれば、自ずと視界は開けていくし、時間の尺度も変わるはずです。』
(FQ記事より)
想像ではない。意思。
コロナウイルス禍の中にあって、田舎も都会もみんな不安だらけだ。
そんな中にあってたくましく生きるためには、自分たちは世界をつくるのだという強い意思こそが求められている。