以前、娘と直島にある地中美術館に行ったことがある。
僕自身がアートについて、いろいろ語れるほどの知識やセンスを持ち合わせているわけではない。
だけれど、ふいとなんとなくアートに触れたくて、娘をダシにして見に行くことにしたのだ。
子どもたちは、まさにまっさらなキャンバスのような存在だから、小さなころから本物に触れておくことは、彼らの将来のためにはなるだろうという思いはあった。
地中美術館の中にあるモネの『睡蓮』と対峙する。
睡蓮の絵は、美術の教科書にも出ていたし、あちらこちらで目にすることはあったが、本物に対峙するのははじめてだった。
僕自身が一番心動かされたのは、まさにそこで書いたであろう筆遣いだった。
筆を走らせ、絵の具を何重にも塗り付けていくさま、わずかであるけど、絵の具が乗った分だけは、厚みを増している。
そして、べったり塗ったり、筆先だけをこちょこちょと動かしたり、一枚の絵を描き上げるためにどれだけの労力を要したかわからないけど、何度も何度も思考錯誤しながら描いていったのかな…
そんなふうに僕には見えた。
今、4Kだ8Kだと映像技術が進化し、また印刷技術も進展し、モネの絵も細部にわたり見えるようになった。
今のVR技術も相当進化しているのだろうけど、あの筆の何ミクロンかの筆の厚みまではさすがに表現はできまい。
つまりは、やはりコピーしたものは、どこまで忠実に再現しようともやはりコピーなのだ。
僕はあの絵と対峙したとき、まさにモネがその場所にいて、キャンバスを引いたり、近づいたり、右に行ったり左に行ったり、動き回っているように思えた。
絵のすばらしさそのものは僕自身はよくわからないけど、『感動』、つまりは心動かされたことだけは事実だ。
世の中が便利になって、近しいものはいくらでも手に入るような時代になった。
でもどんなに努力をし続けてもやはり本物は本物である。