『熱田』にこれからの社会のありようを見る | ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

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どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

昨日のツイートより

 

なぜ、そんな山奥に人が住んでいるの?

という疑問。

現代を生きる私たちにとっては、まったくもって摩訶不思議なことです。

 

 

先日、久しぶりに小代区の最奥の地、『熱田』を訪ねました。

但馬牛や神戸牛を扱う和牛の世界では、小代は聖地と呼ばれていますが、さらにその聖地と呼ばれるのが、『熱田』と呼ばれる場所です。

但馬牛とひとくくりにいっても、それらを改良する歴史の中で3つの代表的な系統があり、それらを蔓と呼んでいますが、その中でも小代区と村岡区で飼養されている『あつた蔓』は、その名のとおり、この『熱田』を起源とする系統であります。

 

熱田は廃村となってしまい、今は人も住んでいません。

元あった民家も今はほとんどが残骸となってしまっています。

 
 

『熱田集落の中にある廃屋』
 
しかし、その中でも今でも現存しているのが、小南小学校熱田分校。(昭和44年閉校)
昭和50年大雪を機に、町が冬季の住宅を町の中心に設け、それ以降、そこでの暮らしをあきらめてしまい、ついには、廃村となってしまいましたが、当時の姿を今でもとどめて建っていることからも分かるようにここにしっかりとした人のいとなみがあったことがわかります。
 
野間峠(ハチ北)付近から熱田方面を眺めますと、中ほどに、木が生えていない田んぼのようなものが見えますが、ここは現在、美方高原自然の家『とちのき村』がある備(そなえ)ですが、熱田はさらに、その先の谷間にあります。
本当に険しい谷間の中に熱田があることがわかります。
 『野間峠から熱田を見る』
 
 
地図でみるとこんな感じです。
 
なぜ、この熱田という地が聖地なのかという理由です。
国立国会図書館に、安政年間に制作されたとされる『但馬国図』があり、その地図に熱田が記されていています。
 
それを見ると、熱田に行くための道として新屋→備→アツサ(熱田)という道が記されています。
 
現在の国土地理院の地図と見比べてほしいのですが、現在は国道482号線として、秋岡から、熱田に行く道路が整備されていますが、江戸時代にはありませんでした。
 
今は国道482号線を通って秋岡から熱田に行くことができますが、4キロの道のりを行かなくてはいけません。
 
但馬国図に記されているように秋岡→新屋→備え→熱田と行くには、約8キロの道のり歩いていかなくてなりません。実際私も歩いてみましたが、すごいところです。備から、熱田に行くのに、四十曲がりと呼ばれる急峻で曲がりくねった山道を通らなくてはいけませんが、文字どおりつづら折りの道が続いています。
 
小代の中心部に行くには15キロぐらいはかかってしまうという場所に位置するのが熱田という場所だったのです。
 
なぜ、当時ここに村が存在していたのか…
それは、その地域がサスティナブルだったということに他なりません。
 
まず、人が『食べる』ための田畑をつくることができたということ。氷ノ山系(鉢伏山系)からの水を利用することができました。
 
そして、燃料に困ることがなかったということ。山あいにあるため、薪が調達ができたわけです。
 
さらには、但馬牛の存在です。
昔は、どの家にも但馬牛が一頭は居ました。先人たちが改良に改良を重ねてきた特別な存在でした。
 
人なつっこく従順であり、耕耘や物資の運搬をするのに強く、なおかつ、山奥の小さな棚田を耕作するに適するような小回りの利くよう改良を重ねてきたのです。(ちなみに、小代の地名は小さな田んぼという意味に由来します。)
 
また、稲わらは、牛の寝床や飼料になり、糞尿はたい肥として、田畑を肥沃にしていきました。
 
こうして小さなリサイクルループが山奥の村でも完結できたため、山での生活でも『食べていく』ということができ、人々の生活がなりたっていたわけです。
 
つまり、今、世界がもっとも注目する『サスティナブルな社会』というのものを先人たちは連綿と続けてきたわけです。
 
昭和30年代ごろから、車社会(石油の社会)が急速に発展したことで、日本の生活のありようががらりと変わりました。
それ以降、但馬牛は農耕牛としての役割を終えてしまいます。
熱田が消滅したのも、そのようなグローバル社会の到来と無関係ではありません。
 
人々はより便利さを求めていた結果、サスティナブルループが断ち切られてしまいました。
薪を使わなくなってそれは資源ではなくなり、小さな田んぼでは自分たちだけが食べる分だけは確保できたとしても、それ以上の利益をもたらすことはできなくなり、結果熱田では経済活動が営めなくなったのです。
 
但馬牛の改良の歴史の中で熱田の牛が大きな貢献を果たしていますが、それはこの地が小代の中心地から遠く離れた場所であったため、但馬牛の遺伝的要素が、他との交配から免れていたからだといいます。それはまさにこうした立地が逆に幸いし、小さな地域で営まれたサスティナブルな社会が但馬牛の純血種を守ってくれたのです。
 
ここ数日のニュースでは、コロナウイルスが世界中で猛威をふるい、人々の命を脅かしています。
世界レベルで人の往来が盛んになったことで、結果世界のとある都市での出来事であったにも関わらず、世界中が震撼させられる事態を招いています。
 
今私たちは、社会に生きている中で、その関係性を断ち切って生きていくことはもはや不可能です。
インターネットを使い、飛行機、電車、車などの移動手段に支えられ、食料、物資を世界中から得ている時代。
 
しかし、かつて、熱田に存する牛の存在が和牛の世界を変えていったように、山のどんづまりの生活には、日本や世界を救うためのヒントが隠されているようにも思えます。
 
非効率だという理由だけで、そういったローカルな社会を切り捨てるのではなく、多様な世界がこれからの社会を支えていくのだとすると、もっと私たちは足元もみて、世界の危機に対峙していく必要があるように思います。