昨日は久々に、時間がとれたので、一日子どもたち(次男と長女)と過ごすことにしました。
もっと早くから計画的にしていればよかったのですが、何も考えていなかったので、今回は、子どもたちが何がしたいかを引き出して、それをかなえてあげようと思いました。
二人にきいてみました。
『今日は、できるだけお前たちの希望をかなえようと思う。だから何がしたいか言ってみて…
ただし、二人が同意した内容だぞ!』
と条件をつけて聞いてみました。
娘は『USJに行きたい』
息子は『レゴランドに行きたい』
との回答。
そしてしばらく黙って二人のやりとりを聞いていましたが、お互い一歩も譲らず平行線のままです。
妻が横から聞いていて、
『USJは遠いしねー』『レゴランドも遠いよー』(レゴランドは名古屋にあるうです)と入れ知恵をしています。
結局、親が議論をリードして、竹野のジオカヌーと、鳥取のこどもの国に行くことになってしまい、子どもたちの希望はそのままはかなえられませんでしたが、それなりに楽しんではくれたようです。
そんなやりとりを聞いていて、はたと気づいたことがあります。
親は、なんだかんだと自分たちの考えを子どもたちに注入しているな…ということです。
それはよきにつけ、悪きにつけです。
子どもが成長する間にさまざまな選択をしますが、子どもたちだけで決めることって小学生ぐらいのときはないかもしれません。
あるスポーツをさせるのも、けっこう親が子供になにかをさせたくってきめてあげることが多く、結果それを子供が好きになって、自分の天命だと思うようになるのであって、最初からこれがしたいっていうアイデアを子供たちはもちあわせていないことのほうが多いと思うのです。
例えば親がこどもに野球をさせたいって思い、子どもにその楽しさを一生懸命伝えて、野球教室か少年野球チームにいれさせたりすることってけっこうありますよね。
友達がやっているのをみて、自分もやりたいっていう子もいるかもしれませんが、けっこう親が最初にきっかけをつくっていることって多いと思います。
そう考えると、子どもたちがあるものごとについて『できる』とか『できない』という判断も、自らが下すのではなく親がそう思うのか思わないのかという判断に従うことが多い気がします。
だから、親がポジティブに生きるということが子供にとってもポジティブに生きることにもつながるし、親が世の中をネガティブにしか考えていないとすれば、結局こどもがそれ以上に世の中をポジティブに考えることはないのではないかと思います。
だから、親の責任って重いな
改めて思いました。