(115)サクラサク
ホオジロのお花見 西宮・夙川にて
サクラサク お祝い送り 心咲く
さくら友藏
(友藏心の俳句)
もう一首、
ありがたや 心配じじいを まもる孫
さくら友藏
(友藏心の俳句)
アニメ「ちびまる子ちゃん」の中で、まる子ちゃんの祖父・友藏さんが詠む『友藏心の俳句』です。
『友藏心の俳句』は、ちょっぴり切なさもにじませた友藏さんの孫への想いが、心に響いてきます。
季語がない句も一興です。
『サクラサク』絵馬 宝塚天満神社にて
※紅梅が咲いています
合格を知らせてくれる嬉しい言葉に「サクラサク」があります。
積み重ねた努力が花開くイメージと春からの新生活を連想させる素敵な表現ですが、いまだに電報文の表現(カタカナで「サクラサク」)が使われています。
昭和の初め、電報は郵便より素早く手軽にメッセージが送れる手段として、全国的に利用されるようになりました。
戦後になると、その電報が遠方で受験した学校の合否結果をいち早く知らせるサービスにもなったのです。
電報はカタカナと数字しか使えず、さらに文字数によって料金が変わるため、短い文字数でわかりやすく内容を伝えることが大事になります。
そんな中、「ゴウカク」「フゴウカク」といった直接的な表現ではなく、優しく内容が伝わる文言として「サクラサク」「サクラチル」が考えられたようです。
「サクラサク」「サクラチル」の文言を最初に思いついたのが早稲田大学で電報発信のアルバイトをしていた学生だったようです。
文化への貢献大ですね。
夙川沿いの桜 西宮にて
花見の花といえば、桜。
古来から、桜は私たちにとって心浮かれる花です。
良寛さんは、
いざ子ども 山べにゆかむ 桜見に
明日ともいはば 散りもこそせめ
『さあ、皆んな一緒に花見に行こう。明日なんて言っていたら散ってしまうよ』と、子どもたちを花見に誘っています。
花見とは 地に筵(むしろ)敷き 酒に酔ひ
星野立子
夙川公園での花見
桜と言えば「西行さん」と言うほど西行法師は、桜の歌人として名を馳せています。
願わくば 花の下にて春死なむ
その如月(きさらぎ)の 望月の頃
西行法師
(意訳)
願いが叶うならば、何とか桜の下で春に死にたいものだ。しかも釈迦が入滅したとされる陰暦の二月の満月の頃がいい。
西行法師が晩年を過ごした吉野山は、四月には全山が桜色に染まります。その花の頃、西行法師が愛した吉野の桜に思いっきり浸って染まってみたいものです。
桜色に染まる吉野山
桜花 咲きにし日より 吉野山
空もひとつに かほる白雪
藤原定家
藤原定家は、西行法師が愛した吉野山の桜に思いを込めて桜の歌を詠んだようです。この歌は西行法師が亡くなった年に詠まれています。
そして、西行法師に強いあこがれと敬愛の情をもっていたのが、松尾芭蕉です。
吉野にて 桜見せうぞ 檜笠(ひのきがさ)
松尾芭蕉
(意訳) |
松尾芭蕉は、心の師と仰ぐ西行法師に近づくには吉野へ行くしかないと思い立ち、吉野の桜が満開のときに旅立ちました。
この句は伊賀上野を出発するときに詠まれています。
吉野に到着すると、松尾芭蕉は満開の桜のなかで三日間滞在しましたが、吉野の桜を一句も詠むことができなかったといいます。
吉野の桜の素晴らしさを言葉に出来なかった松尾芭蕉。
沈黙こそ「何をか言わんや」です。
満開を迎えた吉野の桜
さまざまな こと思い出す 桜かな
松尾芭蕉
松尾芭蕉が奥の細道の旅に出る一年前、故郷の伊賀へ帰省したときの句です。
若き日の芭蕉は伊賀の国で主君・藤堂良忠に仕えていましたが、主君は二十五歳という若さで急逝してしまいます。
主君を見送った後、芭蕉は俳諧の道に生きることを決意し、侍の道を捨て脱藩します。
それから22年。
脱藩の罪を負った芭蕉は、故郷の地を訪れることはないと思っていましたが、父の33回忌の法要があり桜の咲く頃、故郷の伊賀に戻りました。そのとき思いもかけず旧主の屋敷で催された花見の宴に招かれたのです。
江戸で名を上げた四五歳の芭蕉がその席で詠んだ句です。
芭蕉にとっては、二度と足を運べないと思っていた藤堂家の花見の席への夢のような誘いだったと思います。
その時の感慨を句で表現したのが、
『さまざまな こと思い出す 桜かな』
なのです。
今の感激を飾り言葉もなくただ実感で詠んだ芭蕉、、、
この句に込められた思いが強く伝わってきます。
夙川沿いの桜 西宮にて
花びらが舞い終わると、葉陰には小さなサクランボが実ります。夏は虫で大賑わい。秋になると赤や黄色に染まり、冬にはすっかり葉を落とします。よく見ると、枝の先には小さな芽が、、、。
長かったコロナが収まった今年は、笑顔の花も満開です。
皆んなの心に「サクラサク」。
花見で賑わう夙川