(86)皐月の清風
都道府県を代表する郷土の花は県花(けんか)と呼ばれていますが、その由来は昭和29年(1954年)、NHKが開設30周年記念として、郷土の花を選定したのが始まりだったようです。
清風のなか爽やかに咲くボタン (島根県の県花)
選定の基準は、
①郷土の誇りとする花
②郷土に広く知られ、愛されている花
③郷土の産業、観光、生活などに関係の深い花
④郷土の文学、伝説などに結び付いている花
⑤その地方だけにみられる珍しい花、等となっていました。
千葉県のナノハナ、神奈川県のヤマユリ、石川県のクロユリ、京都府のシダレザクラ、兵庫県のノジギク、そして東京都のソメイヨシノ、福岡県のウメなどが選定されています。
皆さんがお住まいの県花は?
新緑を彩るシャクナゲ (滋賀県の県花)
愛知県の県花は、「カキツバタ」です。
歌枕にもなっている「三河の八橋」は東海道筋にあって、古くからカキツバタの名所として知られていました。
平安初期、在原業平朝臣が三河の八橋(現在の知立市八橋)を訪れたとき、あたり一面に咲き誇る花の美しさに感銘し、カキツバタの5字を詠みこんで和歌を詠んだと伝えられています。
「伊勢物語 第九段」(現代訳、一部略)より。
昔、男がいた。その男、「京には住まないつもりだ。東国の方に住める国を探しにいく」と言い出かけて行った。三河の八橋という所に着いた。そこを八橋というのは、川が八方に分かれていて、橋を八つ渡してあることからである。その沢の木陰で乾飯を食べた。その沢には、カキツバタがとてもきれいに咲いていた。それを見てある人が、『カキツバタという五文字を各句の頭に置いて、旅の心情を詠みなさい』と言ったので、男は詠んだ。
からごろも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞ思ふ
すると、皆の乾飯の上にポロポロと涙が落ちて、乾飯はふやけてしまったのだった。 (以下省略)
唐衣 着つつなれにし つましあれば
はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
在原業平朝臣
(古今和歌集)
(現代訳)
何度も着て身になじんだ唐衣のように、長年なれ親しんだ妻が都にいるので、その妻を残したまま、はるばる来てしまった旅の侘びしさを、しみじみと思うものです。
この物語は時空を超えて能の世界で昇華します。
「能 杜若(かきつばた)」
諸国を廻る旅の僧が、三河の国のある沢辺にさしかかると、おりしも初夏のころ、カキツバタの花が今を盛りと咲き乱れています。あまりの美しさに立ち尽くして眺める僧。
すると、どこからともなく若い女が現れて呼び止めます。女はその昔、在原業平が詠んだ歌を僧に語って聞かせます。
その夜、僧の前に業平の冠を着けて現れた女は、自分が杜若の精だと明かします。僧は、女の語る『伊勢物語』の夢の世界に誘われていきます。
やがて杜若の精は、僧から草木を含めてすべてを仏に導く法を授かり、悟りの境地を得たとして、夜明けとともに姿を消すのでした。
カキツバタ(杜若) (愛知県の県花)
静岡県の県花は、「ツツジ」です。
実は、現在は「ツツジ」ですが、郷土の花選定当初は「お茶」でした。昭和40年、静岡県花の会連合会があらためて県花の見直し選定の条件に『原則として花の咲くもの』をつけ加えた結果、お茶からツツジに変わりました。
それでも全国的には、お茶の香りとくれば、静岡のお茶か宇治のお茶を連想します。今では日本のお茶の4割近くが静岡県で生産されています。が、静岡県のお茶がここまで有名になるには感動の物語がありました。
明治維新前夜、戊辰戦役で一敗地にまみれた徳川幕臣は、明治二年(1869年)に追い立てられるように、荒れ果てた金谷原に移住し、この地の原野を開拓していきます。
剣をとっては国士無双といわれた精鋭隊などの武士たちでしたが、刀を鍬に持ち替えて、不毛の地に挑みかかったのです。
彼らは「死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう」と誓い、苦闘につぐ苦闘を重ね、この広大な茶畑を開拓していったのです。
大井川西岸の牧之原台地一面に広がる雄大な茶畑は、いまや静岡茶の一大産地です。
後年、勝海舟は、「・・・その始め確乎たる精神至誠あらざれば、なんぞかくの如くならん哉」と語り、感激の泪が留まらなかったと云われています。
皐月の風が吹き抜ける茶畑
東海道新幹線の下りに乗り、大井川鉄橋を渡ると、そこには皐月の風になびく広大な茶畑が見えてきます。
敗者となった武士たちの人間としての至誠は、歴史の蔭にあっても、今なお私たちに爽やかな香りをもたらしてくれます。
薫風を誘うバラ (茨城県の県花)