夢路さんぽ

 

 

 

     春は花 夏ほととぎす 秋は月

        冬雪さえて 冷(すず)しかりけり

 

 道元禅師の「本来の面目」と題する歌です。

 

(英訳)

 “In the spring, cherry blossoms,   in the summer the cuckoo.

    In autumn the moom, and in winter the snow, clear, cold.”

 

 This poem is by the priest Dogen and bears the title “Innate 

   Spirit.”

   translated by  EDWARD G. SEIDENSTICKER

        (訳者、エドワード・G・サイデンステッカー)  

 

 

 この道元禅師の歌は、四季折々の自然の美を代表する景物を詠んだ歌です。

 今回、あえて英訳を記しましたが、お読み頂いたように、見方によれば、春・夏・秋・冬の情景をならべただけの歌と言えば言えます。

 

 でも、道元禅師が永平寺の夜空を眺めながら詠まれたと伝わるこの歌は、ありきたりの情景と簡明な言葉を、ためらいもなく、というよりも、ことさらもとめて、連ねて重ねるうちに、日本の真髄を伝えています。

 

 道元禅師の歌は「本来の面目」と題されていますが、四季の美を歌いながら、実は強く禅に通じたものと云われています。

 

 外国人としての日本文学の第一人者 エドワード・G・サイデンステッカー教授が英訳し世界に伝えた歌の一つでもあります。

 

 

 

 

 里の春 北摂三田

 

 

 

 

     あしひきの 山桜花 日並(けなら)べて

          かく咲きたらば いと恋ひめやも

                     山部赤人

                         (万葉集 巻八)

 

(鑑賞)

 「あしひきの山の桜花が何日もこのように咲くのなら、どうして待ち望むことがあるだろう」と、待ち望んでいた満開の桜に出会えた喜びと同時にまたすぐに散ってしまう名残り惜しさも訴えている、そんな万葉人も愛した桜への思いが伝わる山部赤人の歌です。

  ※「あしひきの」は「山」にかかる枕詞です。

 

 

 

 

 万葉時代から平安時代へ移るにつれ、人々はますます桜の花を愛でるようになります。この頃から花見の対象も桜になっていきます。

 

 そして桜と云えば、この人のこの歌を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

 


      願わくは 花の下にて 春死なむ

          そのきさらぎの 望月のころ

                   西行法師

                                             (山家集)    

 

(鑑賞)

 「どうか、春の、満開の桜の花の下で死にたいものだ。あの釈迦が入滅なさった陰暦の二月十五日頃に」という願いを込めました。

 桜をこよなく愛した西行の本領が発揮された名作です。 

 西行にとって、桜とは、恋焦がれる対象、高貴なものへのあこがれ、生命への賛歌であったなどと、いろいろな説があります。

 

 そして西行は、願い通りに文治六年(1190年)二月十六日にこの世を去りました。当時の人々は驚嘆したと伝わっています。

 

 

 この西行には桜にまつわる伝説の歌があります。

 

 

    花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ

          あたら桜の 咎とが)にはありける

                                                          (山家集)    

 

 世阿弥作とされる能 『西行桜』で詠まれる歌です。

 

 京都西山に棲む西行の庵室は花の盛り。そこへ大勢の花見客がやってきます。心静かにひとり桜を眺めていた西行ですが、遥々訪ねてきた人々を追い返すこともできず、皆とともに桜を眺めていましたが、ふと、『花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の咎にはありける』(このように人々が群れ来るのは、桜のせいだ)と、一首 歌を詠みます。

 その夜、桜の空洞から白髪の老人が現れて、『非情無心の草木に浮世の咎はないはずだ』と西行に問いただします。老桜の精は都の桜の名所を讃えて舞い、夜明けとともに消え去ります、、、。

 

 西行の夢が覚め、桜の精も消えるという最終場面。

 

      『夢は覚めにけり、、、』

              と言い残して、 幕。

   

 

 

 桜 浮遊 宝塚花の道

 

 

 

 そして日本人は満開の桜だけなく、意外なほどに落花も多く歌っています。

 

 

   春雉(きぎし)鳴く 高円(たかまと)の辺(へ)に 桜花

              散りて流らふ 見む人もがな

                      作者未詳

                          (万葉集 巻十)

 

(意訳)

 雉が鳴く高円の山のあたりに桜花が、吹く風に散っては流れていく。誰かこの美しい景色を一緒に見る人がいればよいのにな。

 

 

 桜の落花は散るのではなく、流れるというべきかも知れません。

 

この歌は、ひとしきりの風によって一かたまりの花びらが、一方に吹かれ流されてゆくさまを、目にとめた歌です。それを一人で見るのが惜しいほどの美しさだと詠んでいます。

 

 

 

       桜花 散りぬる風の なごりには

            水なき空に 波ぞ立ちける

                     紀貫之

                        (古今和歌集)

 

(意訳)

 桜の花を吹き散らしてしまった風の名残りとして、まだ舞っている花びらは、まるで、水のない空に花びらの波が立っているようだ。

 

 吹き散らされた花びらがまだ舞っている様子を、水面の余波に見立てて、晩春の風景を散る桜への名残り惜しさとともに幻想的に詠んでいます。            

 

 

 

 

 散る桜 奈良吉野川

 

 

 

 

 わずかな期間に咲きほこり、潔く散っていく桜花に心を惹かれるのは万葉人も現代人も同じです。

 

 

 

 桜 賛歌 宝塚花の道(歌劇場前)

 

 

 

 時代を超えて、現代の人たちも「散る桜」の美しい姿に想いを重ねて歌い続けています。

 

 

 

    散るという 飛翔のかたち 花びらは

            ふと微笑んで 枝を離れる

                      俵万智

                        (サラダ記念日)

 

(鑑賞)

 美しい時間を過ごした桜が、満ち足りたようなほほ笑みを浮かべ、時を知って飛び立っていく。花が散った後は、実がなり、種ができ、そして次の年も花を咲かせる。儚さのなかに希望を見出す、まさに日本人が桜に託す思いが歌われています。

 

 

 

 

♪ 霞みゆく景色の中に あの日の唄が聴こえる

 

   さくら さくら 今、咲き誇る

   刹那に散りゆく運命と知って

   さらば友よ 旅立ちの刻 変わらないその想いを 今

            ・

            ・

            ・

   さくら さくら ただ舞い落ちる

   いつか生まれ変わる瞬間信じ

   泣くな友よ 今残別の時 飾らないあの笑顔で さあ

 

   さくら さくら いざ舞い上がれ

   永遠にさんざめく光を浴びて

   さらば友よ またこの場所で会おう

   さくら舞い散る道の上で        ♪

                         

                  森山直太朗

                 さくら(独唱)より

 

 

 

    

 花の道 宝塚

 

 

 

 

 教え子たちの鎮魂と世界平和を願い、私財をなげうって各地に桜を贈り続けた教員のノンフィクション映画「陽光桜」があります。

    『 戦いから花びらへ、戦争から平和へ 』

今年も春風の中で咲く桜は、平和の大切さを伝え続けています。

 

 

 

 平和の桜  広島平和記念公園   <夢路から心を込めて>