(77) 常磐の糸

 

 

 JR奥羽本線 後三年(ごさんねん)駅から東へ3キロの地に金沢公園があります。今は、桜やつつじの名所として親しまれていますが、平安時代には「金沢柵(かねざわさく)」と呼ばれる城柵が設けられた合戦の地でした。

 金沢公園は、後三年の役で、清原家衡・武衡が籠城し、これを源義家(みなもとよしいえ)が兵糧攻めにして陥落させた古城址です。

 

 この金沢公園の中に、「後三年の役700年まつり」の記念として建てられた「納豆発祥の地」碑があります。戦いの間に、偶然糸を引く納豆が発見されたことによるようです。

 

(由来)

 この戦いの折り、源義家は大雪に見舞われ足止めされてしまいます。困った義家は、付近の住民に煮大豆を供出させましたが、時間がないので、藁で作った俵に入れ行軍を続けました。数日を経て、煮大豆は香りを放ち糸を引くようになったといいます。これに驚き、恐る恐る食べてみたところ、意外に美味しかったので食用としました。地元の人たちもこれを知り、自らも作り、後世に伝えたといわれています。

 

 

           わら納豆

 

 

 

 この後三年の役で勝利した武将 源義家は「八幡太郎」の異名をもつ英雄で数々の逸話が今も語られています。

 特に「衣のたて」と「勿来(なこそ)の歌」の語りは、文部省唱歌にも歌われるほどです。

 

 先ずは「衣のたて」

 

 時は康平五年(1062年)、先に討ち死にした父・頼時の意志を継いで徹底抗戦を続けていた安倍貞任(あべのさだとう)は、一時は朝廷の軍勢を押し返していたものの、次第に劣勢となり、衣川館(ころもがわのたて)に籠城しましたが、攻勢に耐えきれず逃亡します。

 

 これを追うのは八幡太郎 源義家。

 『逃げるな卑怯だぞ!戻ってきて勝負しろ!』

 しかし老練なる貞任は義家の挑発に乗ることなく、駿馬に鞭をいれ逃げ続け、距離を稼いでいきました。

 このままでは逃げ切られてしまう、、、、と焦った義家は、とっさに和歌(下の句)を詠みます。

       『衣のたては ほころびにけり』

 

 義家の挑発であることを知りながらも、下の句七・七を聞いてしまったら、上の句五・七・五を返せないと恥になります。

 

 貞任は手綱を緩めて馬を止め、兜がゆれる勢いで、振り向きながら応えました。

      『年を経し 糸のみだれの 苦しさに』

 

 決して油断していた訳ではなく、充分な備えを固めて全力で戦ったが、もはや老いには勝てない。敗れ去ったからと言って、どうか笑わないで欲しい、、、かつて奥州狭しと暴れ回り、数々の戦いで武勲を誇った老勇者の寂しさが、この十七文字に込められていました。

 

 これを聞いた義家は、すぐさま歌を返した貞任に感じ入ったようで、それまで今にも矢を放たんと構えていた弓の矢を弦から外して戦闘態勢を解き、馬を止めて、去りゆく貞任の背中を見送ったといいます。

 

 平安時代から「武士の情け」は存在したということでしょうか。

 

 

 

          衣川の流れ 中尊寺付近から望む

 

 

 

 もう一つの逸話は「勿来の歌」

 

 源義家は、戦えば強い武士でしたが、自然のつくり出す情景に心を動かされる繊細な感性をもつ人物でもありました。

 

 後三年の役での戦いを終え、勿来の関を通りかかったとき、風に吹かれて散り乱れ、道を埋め尽くすほどの桜の花片が辺りを染めていました。

 この時に源義家が詠んだ歌が、勅撰和歌集である「千載和歌集」に収録されています。文武両道の義家、面目躍如の歌です。

 

 

        吹く風を なこその関と 思へども

               道もせに散る 山桜かな

                          源義家朝臣

                               (千載和歌集 百三)

 

(歌意)

 ここは勿来の関なのだから、その名前の通り風よ来るな。きれいに咲く桜をそのままにして、吹いてくれるな。それでも風がしきりと吹いて、道がふさがるほどに沢山の山桜の花が散り敷いている

 

 

  鈴木寿山画 「絹本著色勿来関詠歌の図」

       いわき市勿来関文学歴史館ポスターより

 

 

 勿来の関は、常陸国(ひたちのくに)と磐城国(いわきのくに)との国境にあり、松のこずえ越しに太平洋が一望できる地です。

 上掲の和歌をはじめ、紀貫之、小野小町、和泉式部、西行法師などの歌人も和歌に詠んだ歌枕です。

 

 「勿来の関」というフレーズは、歌人・俳人たちにとって、とても大切な歌枕でした。なこそは、古い日本語で、「こないでください」という意味とされています。

 

 平安時代の人々にとって、勿来の関は、あちらの世界とこちらの世界の境界線と考えられていたようです。東北から北を治めていた勢力と、京を中心とした文化圏。ここから先は異世界。つまりここから先は、お互いに行き来できない。人の思いだけでは、簡単に乗り越えられない、という世界観だったのでしょう。

 

 

 勿来海岸(勿来駅付近にて)

 

 

 

 あちらの世界に遠征し、後三年の役での勝利にもかかわらず、朝廷は後三年の役を「私戦」とみなし、恩賞どころか戦費の支払いもしませんでした。

 朝廷から恩賞が出なかったため、義家は関東などから出征してきた武士たちに私財を投じて恩賞としたのでした。

 

 この侠気に富んだ義家の行動が関東武士と源氏との結束を高めることになったのです。

 現在、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映されていますが、後に源頼朝(義家から数えて5代目の直系子孫)が平家打倒を掲げて挙兵した際に東国武士たちが力を貸してくれたのも、こうした義家の行動があったからです。

 

 

 常陸国(茨城県)と磐城国(福島県南部)の総称として用いられる「常磐」は、「じょうばん」とも「ときわ」とも読まれています。

 JR常磐線(じょうばんせん)を走る特急列車の名称が、「じょうばん」ではなく「ときわ」と名付けられるほどです。

 

 「常磐」とは常に変わらないことを意味する言葉として、長寿と繁栄の願いが込められています。

 八幡太郎 源義家の侠気が、時を超え、源氏の繁栄をもたらす「常磐」となったようです。

 

 

 1月10日は「糸引き納豆の日」です。

 この日は、(1・10=いと)という語呂合わせだけでなく、源義家が後三年の役を平定した時期にちなんで制定されたと云われています。

 藁で作った俵の中の煮大豆が腐ったとして兵士たちが捨てているのを目撃した義家は、それを拾いあげて口にしたのが糸引き納豆の起源だと云います。その勇気を称えての1月10日です。

 

 侠気と勇気がもたらした「常磐」。

 単なる偶然とはいえない、大切なものを伝えるエピソードのように思えます。

 

 

 

 常磐の象徴とされる「松」 (人の織りなす世を見守り続けています)

 

 

 

     時をつなぐ 縦の糸、、、

     心をかわす 横の糸、、、

     織りなす想いは あふれる夢を 追いかけて

     ときわの空を 駆け抜けてゆく