(74) 朱 の 道

 

 

 日々の疲れを癒やし、新しい自分を見出す。そんな思いを持って人生に潤いを求める旅。

 

 「同行二人(どうぎょうににん)」、弘法大師・空海とともに歩むお遍路の旅も、「自分探しの旅」と云われる心の旅路です。

 

 

 讃岐路の夕暮れ (空海生誕地を望む)

 

 いまから一千二百年以上も昔に生きた弘法大師・空海の歩んだ道は、国家主導の仏教を、すべての人々のための仏教へと変革させるため、時には国家権力者とも渡り合わねばならない、厳しく苛酷な道でした。

 

        

        高野山 結ぶ庵に 袖(そでく)ちて

                 苔の下にぞ 有明の月     

                       弘法大師・空海(?)

                         (高野山金剛流御詠歌 第二番)

 

 この歌は、空海が醍醐天皇の夢枕に立って詠まれた和歌とされていますので、一応作者を弘法大師・空海と記しています。信じる人は(?)マークを外して下さい。

 

 

 

 

 ここに、空海作と呼ばれる和歌とは言いがたい一首があります。

 

      わすれても 汲(くみ)やしつらん 旅人の

                 高野の奥の 玉川の水

                           伝・空海

                            (「風雅和歌集」巻16-1786)

                         

(意訳)

 高野山の奥に流れる玉川の水は飲んではいけないと書き記しておいたのに、旅人は定めを忘れて汲んでいるのか。

 

 

 何故、高野山奥の院に流れる玉川の水を、空海は飲用とすることを禁じたのでしょうか。

 

 空海の高野山発見にまつわる伝説に答えがあるようです。

 

 

           『弘法大師始建高野山語』

                     今昔物語集巻11第25話より

 

 都がまだ長岡京に置かれていたある日、空海が山中に姿を現します。空海はボロボロの衣を着て縄の帯を結い、欠けた錫杖(しゃくじょう)をつく、いたってみすぼらしい出で立ちです。

 ですが、破れた笠の下の顔は厳しく、その澄んだ目の中は強い光を放っていました。

 

 

 

           空海 修行大師像 教王護国寺(東寺)

                             (画像処理をしています)

 

 

 空海は大和国宇智郡(現、五條市)の山中で、黒い犬を二匹つれた猟師と出会います。

 「どこへいかれるのですか」

猟師は問いかけ、空海は霊地を探し求めていることの仔細を語りました。聞き終わった猟師は、

 「それならば、私がその地を知っております。犬に道案内させましょう」

空海がそのあとをついて行くと、やがて紀伊国の境にいたり、そこに一人の山人があらわれます。空海はまたことの次第を語り、ご存知ないかと山人に問いかけます。山人は、

 「この南方の山中に平原があります。多分、そこが求めるところでありましょう」

と言い、空海をともなって山中に分け入りました。

 すると果たして、空海が求めていた地がそこにひらけていました。空海が喜ぶと、山人はうやうやしく言いました。

 「私はこの地の主でございます。今よりはこの山を貴僧にお譲りしますので、いかようにもお用い下さいませ」

 

               (以下省略)

 

 

 『今昔物語』によれば、この地が高野山であり、空海を導いた猟師は高野明神、山人は丹生(にう)明神だといいます。


 

 丹生とは、水銀のことです。(※)

   ※「丹(に)」とは「朱」と同様、辰砂(水銀と硫黄からなる鉱物)です。

 

 

 丹生明神はその名からして水銀とのかかわりが深く、空海と「山の民」との秘められた交渉をうかがわせます。

 

 唐で、最先端の鉱山技術を学んだ空海は、山の民の力を得て、高野山の膨大な水銀鉱床を教団の財源にしました。この財を得たことで、国家の統制から距離を置くことができ、宗教活動の自由な展開を可能にしたのです。

 

 一方で、水銀の有害性を認識している空海は、人々に水銀の怖さを教え、取り扱いの注意も促していました。

 

 上掲の和歌は、聖地を訪れた人々への警告文の一つだったのです。

 

 周囲を『八葉の峰』と呼ばれる山々に囲まれた高野山は、自然が織りなす曼荼羅の中心としての霊地であるとともに、膨大な財をもたらす水銀の宝庫でもあったのです。

 

 

 

 高野山 玉川峡 丹生の滝 (玉川にかかる滝)

 

 

 

 平安を代表する僧というだけでなく、優れた書家であり、文学者、教育者、占星術師、科学者、土木技師、鉱山技師、、、。

 いくつもの顔をもつ弘法大師・空海は、幾度も苦難に直面し、それに耐えながら、人々への大いなる愛をもって未来を切り拓いていったのです。

 

 

 全国津々浦々に、数知れず残されている弘法大師・空海伝説。

その数は三千篇を超えると云われています。

 日本のどの地域に出かけても、「空海が開いた湯」、「空海が開いた泉」、といった伝説・伝承を見聞きします。

 

 弘法大師・空海伝説は、人々の信仰心とともに、旅することへの願望から作り出されたともいえます。

 日本人が農耕民族として定着したことにより、他の文化の伝播や、他国のニュースを欲し、同時にそれは旅への願望につながりました。

 

 

 

 睡蓮 京都平安神宮

 

 

 

 弘法大師・空海の姿は、異質な文化の伝来者であり、その偉大さから、人々の幸福と除難をもたらす憧れになっていきました。

 

 空海がその起伏に富んだ修行の中からつむぎだしたものは、この悩み多い現代社会に生きるわれわれをも励まし続けています。

 

 

 紅梅 讃岐 善通寺 (空海生誕の地)

 

 

 弘法大師・空海は現在もなお、高野山奥の院のご廟で座禅にふけっておられます。

 ご廟の中の空海は生き仏。その名は『弘法大師遍照金剛菩薩』です。

 

 菩薩という名の仏さまは、四つの愛の心を持っておられます。

   一つの愛は『慈』といい、人々を慈しむ心です。

   二つの愛は『悲』といい、人々をあわれむ心です。

   三つの愛は『喜』といい、人々を喜ばせる心です。

   四つの愛は『捨』といい、人々を救うためなら、自分の命も

                   捨てる心です。

 

 空海は、慈・悲・喜・捨という四つの愛で、現在の私たちに語りかけています。

 「もしも私に助けを求めるならば、私の姿を描いた絵や、私の姿を彫んだものに向かって、私の名を呼ぶがよい。いつでも、どこでへでも、私はかけつける」と。

 

 

 座禅草 近江今津にて

 

 

 

 道行くお遍路さんの菅笠で揺れる「同行二人」の文字・・・。

お遍路さんと弘法大師との二人旅。その一歩一歩を、お遍路さんは弘法大師とともに踏みしめ、旅路の喜怒哀楽を噛み締めます。長大な祈りの道を願いを込め、ひとつ、ふたつ、歩んで行きます。