(68)祈りのおおてら
東大寺 二王の門を 静かなる
うす墨色に ぬらす秋雨
与謝野晶子
南大門の前に立つと、目の前には、大仏殿の鴟尾(しび)が天を支える。そんな偉容の中で、東大寺の明け方は天平の端正で豪壮な美を伝えて、鎮まっています。
東大寺の明け方 南大門から大仏殿を望む
朝の光を受け夜露がキラッと輝きかけた中を、若草山の山麓にある東大寺を訪れました。
古寺巡りの先駆者としても著名な哲学者・和辻哲郎(わつじてつろう)がその著 「古寺巡礼」の中で、偉大な門だと言わしめた南大門。
その太く高い柱を見上げながら門の壇上に立ち、真正面にどっしり構える大仏殿の甍の両端で淡い金色を放っている鴟尾がみそら色の天空に聳える姿を望んだとき、あぁ、これが『おおてら』なんだという、なにか、こみあげてくる感慨を覚えたのでした。
早朝の東大寺(鏡池から大仏殿を望む 手前は中門)
コロナ禍で訪れる人が減ったものの、いまだに人々をひきつけているのは、大仏殿があり、本尊るしゃな仏が、おられるからなのでしょう。
東大寺は、仏法の力で、人々に幸福をもたらそうと発願された聖武天皇によって造顕をみました。
しかし、現在の建物も本尊も、治承、永禄と、二度の兵火に炎上してのち、元禄年間に復興されたものです。
奈良時代の創建当時の規模よりは多少縮小されているようですが、それにしても、この大仏殿をはじめとする伽藍を通して、聖武天皇のはげしい祈念、たくましい気宇に圧倒されるとともに、天平文化の壮大さを如実にうかがいしることができます。
大仏さま 東大寺本尊 盧舎那仏(るしゃなぶつ)
おほらかに
もろて の ゆび を
ひらかせて
おほき ほとけ は
あまたらしたり
会津八一
(意味)
大きくゆったりと両手の指をお開きになって、大仏さまはこの天(宇宙)に広く満ち広がっておられる。まるで宇宙そのもののように。
大仏殿が炎上したのは二度あり、二度目の受難は永禄十年(1567年)、東大寺は戦国の武将、松永久秀の兵火で炎上。
大仏殿は焼失し、大仏の頭部は焼け落ちたと伝えられています。
江戸時代にはいって、長いあいだ大仏が野ざらしのまま雨ざらしになっていることを嘆いた僧がいました。彼の名は公慶(こうけい)。
公慶は大仏殿再建を決意し、『一紙半銭』を標語に、雨の日も雪の日も全国を巡り歩き、勧進を進めていきます。
そうした苦労を重ねる中で、大仏の修復が終わったのは勧進を始めてから12年後の元禄五年(1692年)でした。
その後も公慶は諸国に勧進を続けていきましたが、大仏殿の落慶を見ることなく、宝永二年(1705年)に客死します。
大仏殿の落慶が成ったのは宝永六年(1709年)、公慶が没してのち4年目のことでした。
公慶の弟子によって製作された『公慶上人像』は、充血した左目や、こけた顔、数多く刻まれた皺など、生涯を大仏殿復興に捧げ、志半ばで倒れた公慶の辛苦を今に伝えています。
公慶が大仏殿再建に取り組んでいた元禄二年(1689年)12月、松尾芭蕉が東大寺を訪れ、この時の大仏への想いを俳句に詠みました。
初雪や いつ大仏の 柱立て
松尾芭蕉
~初雪が大仏の頭にかかっている。
大仏殿の再建が早く実現することを願う~
芭蕉は、大仏さまが再び慈悲の光で世を照らされることを願って詠んだ句です。
天平の美を今に伝える東大寺ミュージアム玄関にて
世界最大規模の木造建築・大仏殿、古仏の宝庫・法華堂、そして大仏さま、、、。
護国安民を願って建立されてから一千二百七十年、天平の祈りが今も息づく静寂の大伽藍を歩いた。
東大寺境内 静かに明ける東塔跡にて