(ゲルギエフ&ウィーン・フィルの来日公演) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

現在、ヴァレリー・ゲルギエフとウィーン・フィルが来日ツアーを行っている最中である。

関西公演も行われたが(チャイコフスキーの「悲愴」交響曲等)、聴きに行くべきかどうか、私は迷ってしまった。

というのも、私はゲルギエフの演奏がそれほど好きでない。

苦手というほどではなく、ロシアの指揮者にありがちなわざとらしい大仰な表現をしない点は好ましく思う。

その代わり、彼の演奏から大きな感動を得られた覚えもあまりない。

 

 

16年前、私は東京でゲルギエフ&ウィーン・フィルのコンサートを聴いた(その記事はこちら、記録のみ)。

確か、私の初めてのサントリーホール体験である。

このときのコンサートで、最初の曲だったヴァーグナーの「タンホイザー」序曲の、クラリネット(おそらくペーター・シュミードル)のまろやかなウィーンの音色に魅了されたのは今でも忘れがたい。

しかし、メインプログラムだったチャイコフスキーの「悲愴」交響曲(まさに今回と同じ曲)では、それほど大きな感銘を受けなかった。

覚えていることといったら、第1楽章展開部で、ゲルギエフの身体の動きがやたら機敏だなぁ、と妙に感心したことくらい。

 

 

16年前の記憶ということで不確かだけれど、同じ頃に収録されたゲルギエフ&ウィーン・フィルの「悲愴」の録音を今聴いてみても、やっぱりどこか物足りない。

フルトヴェングラーや西本智実のように重厚なロマン、あるいはムラヴィンスキーやクルレンツィスのようにひた走るロマン、とにかくぐっと心を掴まれるようなロマンがゲルギエフにはあまりなく、そつのない演奏だが圧倒的な感動は得られない。

とはいえ、これはゲルギエフが悪いのでなく、私の指揮者の好みが贅沢に過ぎるのだと思う。

同じく16年前に聴いた小澤征爾&ウィーン国立歌劇場の「フィガロの結婚」の引っ越し公演も、やはり感銘を受けなかったのだし。

 

 

そんなこんなで、今回のゲルギエフ&ウィーン・フィルの関西公演は迷った挙句に結局見送ってしまったのだが、聴かれた方々の評判を見ていると好意的なものばかり。

コロナ禍の困難な状況下にあって、今回は特に力の入った名演となったのかもしれない。

考えてみれば、コロナ禍においておそらく唯一来日してくれた海外オーケストラ公演である。

また、ウィーン・フィルとしても他国は諦め日本のみに来ているよう。

日本に対する彼らの熱い思いに応えるためにも、また歴史的意義からも、聴きに行っておけばよかったかな、と少し後悔している。

 

 


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