今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。
昨夜、「五山送り火」の大文字焼きを見に行った。
大文字焼きの画像なんてネット上にたくさんあるし、今更うまくもない写真を追加する意義はあまりないけれど、せっかくなので載せておきたい。
上がフラッシュあり、下がフラッシュなし。
これを見ると、もう夏も終わりだな、という感じがする。
まだ暑いといえば暑いのだけれど、それでもついこの間までは夜中でも32℃もあって蒸し風呂のようだったのに、今では最高気温がそのくらいになって、最低気温は20℃を下回るほど。
だいぶ夜が涼しくなった。
夏の終わりは、何だか寂しい。
あんなにも暑かった夏が、終わってしまった。
春夏秋冬の流れが、ちょうどその半ばにあって、上り坂から下り坂へと転ずる瞬間である。
あたかも、一国の盛衰か、あるいは人生のよう。
音楽でたとえると、どうか。
さしずめ、ブラームスの交響曲を第1番から第4番まで順に聴いていく際、第2番フィナーレの活気にあふれる熱いコーダを聴いたのち、ややあって、第3番冒頭を耳にした瞬間、といったところか。
この第3番の冒頭は、一見第2番フィナーレ同様まだまだ熱そうなのだが、よく聴くと第2番とは印象が違っている。
長調と短調とが頻回に交替するこの第3番の音楽には、ある種の影が差していて、一つの頂点を越えた下り坂のようなものを想起させる。
あるいは、ヴァーグナーの「ニーベルングの指環」四部作を通して聴く際、「ヴァルキューレ」が終わって「ジークフリート」にさしかかる部分、ともたとえられるかもしれない。
「指環」四部作をヴォータンの壮大な人生の物語とみなすと、このあたりの箇所は、絶大な力を持っていた強権的なヴォータンがそれを失っていくうえでの、一つの転換点といえるだろう。
絶頂こそ、下り坂の始まりである。
これらの音楽からは、ブラームスやヴァーグナー自身の悲哀さえ感じられはしないか。
こういう感覚は、バッハやモーツァルトやベートーヴェンには、まだあまりなかったような気がする。
歳を重ねれば重ねるほど、その分ますます音楽に深まりをみせた、3人の巨人たち。
そういった深まりとはまた違った、栄えたのちに枯れゆくような哀愁を、私はブラームスらの音楽から感じるのだった。
こういった感覚は、ロマン派以降に特有のものなのかもしれない。
夏が終わると、もう秋はすぐそこ。
ぼーっとしていると、すぐに冬になってしまう。
時間の流れは、つくづく速い。
↑ ブログランキングに参加しています。もしよろしければ、クリックお願いいたします。