(大文字焼きと夏の終わり) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

昨夜、「五山送り火」の大文字焼きを見に行った。

大文字焼きの画像なんてネット上にたくさんあるし、今更うまくもない写真を追加する意義はあまりないけれど、せっかくなので載せておきたい。

上がフラッシュあり、下がフラッシュなし。

 

 

 

 

 

これを見ると、もう夏も終わりだな、という感じがする。

まだ暑いといえば暑いのだけれど、それでもついこの間までは夜中でも32℃もあって蒸し風呂のようだったのに、今では最高気温がそのくらいになって、最低気温は20℃を下回るほど。

だいぶ夜が涼しくなった。

 

 

夏の終わりは、何だか寂しい。

あんなにも暑かった夏が、終わってしまった。

春夏秋冬の流れが、ちょうどその半ばにあって、上り坂から下り坂へと転ずる瞬間である。

あたかも、一国の盛衰か、あるいは人生のよう。

 

 

音楽でたとえると、どうか。

さしずめ、ブラームスの交響曲を第1番から第4番まで順に聴いていく際、第2番フィナーレの活気にあふれる熱いコーダを聴いたのち、ややあって、第3番冒頭を耳にした瞬間、といったところか。

この第3番の冒頭は、一見第2番フィナーレ同様まだまだ熱そうなのだが、よく聴くと第2番とは印象が違っている。

長調と短調とが頻回に交替するこの第3番の音楽には、ある種の影が差していて、一つの頂点を越えた下り坂のようなものを想起させる。

 

 

あるいは、ヴァーグナーの「ニーベルングの指環」四部作を通して聴く際、「ヴァルキューレ」が終わって「ジークフリート」にさしかかる部分、ともたとえられるかもしれない。

「指環」四部作をヴォータンの壮大な人生の物語とみなすと、このあたりの箇所は、絶大な力を持っていた強権的なヴォータンがそれを失っていくうえでの、一つの転換点といえるだろう。

絶頂こそ、下り坂の始まりである。

 

 

これらの音楽からは、ブラームスやヴァーグナー自身の悲哀さえ感じられはしないか。

こういう感覚は、バッハやモーツァルトやベートーヴェンには、まだあまりなかったような気がする。

歳を重ねれば重ねるほど、その分ますます音楽に深まりをみせた、3人の巨人たち。

そういった深まりとはまた違った、栄えたのちに枯れゆくような哀愁を、私はブラームスらの音楽から感じるのだった。

こういった感覚は、ロマン派以降に特有のものなのかもしれない。

 

 

夏が終わると、もう秋はすぐそこ。

ぼーっとしていると、すぐに冬になってしまう。

時間の流れは、つくづく速い。

 

 


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