NHK交響楽団 第1879回定期(Aプロ) パーヴォ・ヤルヴィ マーラー 交響曲第7番「夜の歌」 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

NHK交響楽団

第1879回 定期公演 Aプログラム

 

【日時】
2018年2月10日(土) 開演 18:00 (開場 17:00)

 

【会場】

NHKホール (東京)

 

【演奏】

指揮:パーヴォ・ヤルヴィ

管弦楽:NHK交響楽団

(コンサートマスター:篠崎史紀)

 

【プログラム】

マーラー:交響曲 第7番 ホ短調 「夜の歌」

 

 

 

 

 

ルガンスキーのピアノ、テミルカーノフの指揮による読響マチネ―を聴いた後に(その記事はこちら)、ハシゴをしてN響の定期公演を聴きに行った。

指揮はパーヴォ・ヤルヴィ。

彼の演奏を生で聴くのは、これが初めてである。

 

 

パーヴォ・ヤルヴィというと、現代を代表する巨匠の一人である。

私にとってもかなり好きな指揮者。

スマートできびきびした、かつ丁寧な音楽づくりが魅力である。

特に、ブラームスやマーラー、R.シュトラウス、ヒンデミットといった、独墺系の作曲家の演奏において、とりわけ適性を発揮する指揮者ではないだろうか?

スマートな中にも落ち着いた味わいがあって、「今風」でありながらも根底に「伝統」が脈々と息づいているように感じられる。

現在N響と録音が進められているR.シュトラウスのシリーズも、なかなかに素晴らしい(特に「ティル」は絶品)。

反面、ラヴェルやストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、バーンスタインなどでは、ちょっと品が良すぎるというか、インパクトが小さい気がして、聴いていて少し物足りなさが残る。

彼は、旧ソ連のエストニアに生まれ、その後アメリカで音楽教育を受け経験を積んだようであるのに、なぜ独墺系のレパートリーを得意としているのか。

ドイツ・カンマーフィルやhr交響楽団(フランクフルト放送交響楽団)での経験が大きいのかもしれないが、実際のところは分からない。

本人に言わせると、きっと「独墺系以外だって得意だよ」というところなのだろうけれど。

 

 

今回のプログラムは、マーラーの交響曲第7番。

この曲で私の好きな録音は、

 

●ラトル指揮バーミンガム市響 1991年6月ライヴ盤(NMLApple MusicCD

●ブーレーズ指揮クリーヴランド管 1994年11月セッション盤(NMLApple MusicCD

 

あたりである。

躍動感あふれるラトル盤に、曲の構造を冷静にあぶりだすブーレーズ盤。

今回のパーヴォ・ヤルヴィ&N響による演奏は、どちらかというとラトル盤に近い、かつラトル盤以上に洗練された名演だった。

各楽器のバランス配分、リズムの鋭さ、一瞬の間の置き方、こういったあらゆる要素が、大編成のオーケストラであるにもかかわらず、彼の手によって完全に統率されていた。

テンポ変化のキレ味も鋭く、終楽章の真ん中あたり(チューブラーベルが出てくる直前)とか、あるいは最後の最後のところなど、上記ラトル盤以上の高速テンポでありながら、あくまで洗練されていた。

パートごとの細部の表現も練られていて、ネゼ=セガンがもしこの曲を振ったならばかくや、と思わせるほどだった(ネゼ=セガンならばより一層こだわったかもしれないが)。

なおかつ、上にも書いたように、パーヴォ・ヤルヴィの演奏はどこか落ち着きのあるまろやかな味わいをも持っていて、それが第4楽章などで美しい効果を発揮していた(特に弦楽器)。

 

 

洗練洗練というけれど、マーラーにはもっと泥臭い「人生の苦悩」の表現が必要だ、との意見もあるだろう。

しかし、少なくともこの曲に関しては、そういった要素のウェイトは大きくないのではないだろうか。

マーラーの交響曲の中でも少し特異な位置を占める、しかしそれまでの6曲よりも確実に複雑な書法へとさらに一歩進めることとなった、第7番。

のちの第9番をすでに指し示しているともいえるこの曲、その演奏として、今回のパーヴォ・ヤルヴィ&N響のものは一つの完成形と言ってもいいかもしれない。

 

 


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