読売日本交響楽団
第18回大阪定期演奏会
【日時】
2017年12月21日(木) 開演 19:00
【会場】
フェスティバルホール (大阪)
【演奏】
指揮:サッシャ・ゲッツェル
ソプラノ:インガー・ダム=イェンセン
メゾ・ソプラノ:清水華澄
テノール:ドミニク・ヴォルティヒ
バス:妻屋秀和
合唱:新国立劇場合唱団
(合唱指揮:三澤洋史)
管弦楽:読売日本交響楽団
(コンサートマスター:長原幸太)
【プログラム】
ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 作品125 「合唱付き」
読響の大阪定期を聴きに行った。
年末ということで、曲目はベートーヴェンの第九である。
この曲で私の好きな録音は、
●フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル 1937年5月1日ロンドンライヴ盤(CD)
●フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル 1942年3月22~24日ベルリンライヴ盤(CD)
●フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管 1951年7月29日バイロイトライヴEMI編集盤(NML/Apple Music/CD)
●フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管 1954年8月22日ルツェルンライヴ盤(CD)
●カラヤン指揮ベルリン・フィル 1962年10、11月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●カラヤン指揮ベルリン・フィル 1976、1977年セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●カラヤン指揮ベルリン・フィル 1983年9月20~27日セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●西本智実 指揮 イルミナート・フィル 2013年11月10日ローマライヴ盤(DVD)
あたりである。
「多すぎる!」と叱られそうである。
「にしてもフルトヴェングラーとカラヤンばかりじゃないか、それならもう少し絞れないのか」とも言われそうである。
おっしゃる通りなのだが、これら複数種の演奏はいずれも素晴らしく、どれかに絞るということは、私には難しい(というより、これでも多少絞ったつもり)。
一般的に広くお勧めできるという意味では、フルトヴェングラーでは1951年盤(いわゆる「バイロイトの第九」)、カラヤンでは1983年盤が良いということになるとは思うけれど。
ところでこれらの録音、偶然だがだいたい10年ごとくらいの間隔で並んでいて、まるで「第九」の演奏史を追っているかのようであり、なんだか面白い(と感じるのは私くらいか)。
「なぜこんなにフルトヴェングラーとカラヤンばかりなのか、バーンスタインなんかはどうなのか」とご指摘をいただくかもしれない。
確かに、バーンスタイン指揮ウィーン・フィルの第九も、言わずもがなの名演である。
しかし、小澤征爾と村上春樹の対談本での話にも通じると思うのだが(その本についての先日の記事はこちら)、バーンスタインは、その時々のテンポやフレージングを、天性のセンスで作ってしまうところがある。
例えばこの「第九」で、最初弱音で何気なく始まった後、徐々に盛り上がり、その頂点でフォルテ(強音)で第1主題の全貌が呈示されるとき、彼は突然ひきずるような重いテンポ、フレージングを取る。
大変力強く、豪快な演奏である。
そしてその後、また弱音に戻るまでの間に、彼は最初と同様の何気ないテンポに戻すのである。
こういった箇所がその後もところどころに出てくるのだが、彼のこのやり方は、曲の迫力を示すのに大変効果的である反面、ちょっと「演技的」というか、変わり身がはやいというか、効果を狙いすぎているように聴こえてしまうきらいもある。
ことベートーヴェンとなると、そのやり方はとりわけまずいように私には思われる。
それに対し、フルトヴェングラーとカラヤンは、お互いテンポの取り方もルバートのしかたも異なるし、全く違う演奏なのだけれど、両者とも音楽の方向性は曲の最後まで一貫している。
フルトヴェングラーは重苦しい調子で、カラヤンはそれより推進力があるけれどもやはり一定の重みのある調子で、それぞれ首尾一貫している。
わき目もふらず、寄り道もせず、一つのゴールを目指してただひたすら歩みを進める、山登りのようでもある。
だからこそ、展開部を経て再現部に到達したときや、あるいはコーダに至ったとき、さらには終楽章においてもそうなのだが、「もう最初の地点からはだいぶ離れた、こんなにも遠いところまで来てしまった」というような、達成感のような感覚がある。
こういった一心不乱の壮大な山登り(あるいは「苦悩から歓喜への物語」と言ってもいいかもしれない)こそが、ベートーヴェンの音楽ではないだろうか。
前置きが長くなったが、今回のサッシャ・ゲッツェルの「第九」には、そういう意味での一貫性があった。
彼のテンポは全体的にやや遅めで(フルトヴェングラーほどではないが、カラヤンよりも少し遅いくらい)、じっくりした作りになっていたけれども、そこは近年の若手指揮者らしく、さらっとしたスマートさも備えていた。
そして、その歩みを途中で変えることなく、寄り道せずに最後のゴールまで進んでいく。
これはベートーヴェンの演奏には好ましいと思うし、少なくとも昨年の読響大阪定期の「第九」(マルクス・シュテンツ指揮、そのときの記事はこちら)のように、ところどころクセのある表現が聴かれるよりは、格調が高く私の好みに合っていた。
また、一貫性がある分、ちょっとした変化が「おっ」と印象に残ったりもする。
例えば、第1楽章再現部からコーダに入るときに、彼はほんの少しだけテンポを速めるということをしていて、わずかな変化なのだが印象的だった。
また、第2楽章は歯切れよくスタッカートで奏する演奏が多いと思うのだが、彼の場合はやや音を保ってノンレガートくらいで奏させていたのも特徴的である。
ただし、それでは今回の演奏を聴いて大いに感動させられたかというと、そういうわけではなかった。
なぜなのか。
彼のやり方はあまりに淡々としていて、ひっかかりがないのである。
ちょっとしたタメもなく、フレーズとフレーズのつなぎ目もイン・テンポでさらさら行ってしまう。
前述のように、彼は全体的にやや遅めのテンポを採っていたけれど、音楽的にさらっとしているため、「遅い」という感じをあまり受けなかった。
終楽章で頻出する「間」も、彼はほとんど取ることなく、さっさと次に進んでしまう。
低弦で歓喜の歌のメロディが出現する直前の「間」も、合唱が「vor Gott!」と叫んだ後の「間」も、である。
こういった箇所は、「休符による音楽」というか、静寂そのものが雄弁にものを言う部分のはず。
彼はおそらく楽譜通りに演奏しているのだろうし、俗っぽさがなく格調高いのだが、私にはちょっと物足りない。
オーケストラで低弦から高弦へと受け継がれていく歓喜の歌のメロディも、今一つ盛り上がってこない。
ベートーヴェンは、上述したような一貫性も大事な要素だけれど、それと同時に、単なる二部形式から派生した一つの形式に過ぎなかったソナタ形式を、あるいはその集まりとしての交響曲を、独自のやり方で大きく複雑に発展させ、一つの「起承転結」というか、抽象的だが劇的な「音のドラマ」にしてしまった人でもあると思う。
特に、この「第九」に関しては。
ゲッツェルの指揮からは、それがあまり伝わってこない。
一貫した歩みではあるのだが、苦労して山を登るというよりは、平坦な道、決められた道を歩いているような感じがする。
そのあたり、西本智実など、同じく「今風」の演奏ではありながらも、うまく「ドラマ」を形作り、聴き手をわっと感動させてしまうところがある。
なんとも難しいものである。
色々と考えさせられたが、全体的には完成度も高く、「ウィーン古典派としてのベートーヴェン」を聴いたという満足感は十分に得られた。
そして読響はやっぱり弦も管もうまく、なんともさわやかで美しい演奏を堪能できた。
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