新国立劇場バレエ団 滋賀公演 冨田実里 チャイコフスキー 「くるみ割り人形」 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

新国立劇場バレエ団 『くるみ割り人形』

 

【日時】
2017年11月19日(日) 開演 14:00 (開場 13:15)

 

【会場】
滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール

 

【プログラム・出演】

バレー 「くるみ割り人形」

 

音楽:P.I.チャイコフスキー

振付:ウエイン・イーグリング

芸術監督:大原永子

美術:川口直次

衣裳:前田文子

照明:沢田祐二

指揮:冨田実里

管弦楽:大阪交響楽団

合唱:大津児童合唱団
出演:新国立劇場バレエ団、日本ジュニアバレエ

キャスト:池田理沙子(クララ/こんぺい糖の精)、奥村康祐(ドロッセルマイヤーの甥/くるみ割り人形/王子)、菅野英男(ドロッセルマイヤー)、渡邊峻郁(ねずみの王様)、亀井瑠奈(クララ(こども))、大澤雄帆(フリッツ)、細田千晶(ルイーズ)、山田歌子(乳母)、貝川鐵夫(シュタルバウム(クララの父))、仙頭由貴(シュタルバウム夫人(クララの母))、福田圭吾(クララの祖父)、菊地飛和(クララの祖母)、宝満直也(詩人)、原健太(青年)、髙橋一輝(老人)、中家正博(聖ニコラス)、原健太(騎兵隊長)、飯野萌子・広瀬碧ほか(以上 雪の結晶)、寺田亜沙子・渡辺与布・木下嘉人(以上 スペインの踊り)、木村優里・小柴富久修・清水裕三郎・中島駿野・宇賀大将(以上 アラビアの踊り)、奥田花純・宝満直也・八木進(以上 中国の踊り)、赤井綾乃・加藤朋子・柴田知世・廣川みくり・福田圭吾(以上 ロシアの踊り)、細田千晶(蝶々(葦笛の踊り))、柴山紗帆・飯野萌子・原健太・浜崎恵二朗ほか(以上 花のワルツ)

 

 

 

 

 

新国立劇場バレエ団の滋賀公演を聴きに行った。

演目は、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」。

この曲は、晩年のチャイコフスキーならではのノーブルな魅力にあふれており、曲の隅から隅までくまなく洗練され、ちょっとした間奏に至るまでまんべんなく美しいという点で、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」と双璧だと思う。

傑作の多いチャイコフスキーの作品群の中でも、一二を争うほど好きな曲である。

と同時に、あらゆるクラシック・バレーのための音楽の中でも、最高傑作といっていいのではないだろうか。

 

 

そんな「くるみ割り人形」だが、音楽とバレー(踊り)とに分けて書きたい。

まず、音楽について。

この曲の録音で私が好きなのは

 

●西本智実 指揮 日本フィル 2008年8月18-20日セッション盤(CD

 

である。

ラトル指揮ベルリン・フィル盤のように、さらに洗練された録音もあるが、あちらはまるで現代の大都会ベルリンのクリスマス。

それはそれで良いのだが、私としてはもっと、まるで19世紀のクリスマスのような―しんしんと雪の降り積もる夜の寒さや、暖炉のある家の中の暖かさ、子供たちのうきうきとした様子、おとぎの国のような幻想的な感覚―そういった要素を感じられる演奏が好きである。

西本智実盤は、まさにそのような演奏となっている。

小序曲での、これから何かがひそやかに始まるような、ワクワクする雰囲気。

幕開けの情景での、何とも豊かで芳醇な弦の響き。

どこを取ってもこうした表現が自然になされており、実に素晴らしい。

19世紀のクリスマスを彷彿させるといっても、大時代的な演奏というわけでは決してなく、現代らしい丁寧なフレージングや緻密なアーティキュレーションをも、適度に備えているのがまた良い。

 

 

つい前置きが長くなってしまったが、今回の冨田実里の演奏は、どうだったか。

全体としては落ち着いた感じの演奏で好感が持てたが、部分的にはややもっさりした印象の箇所もあった。

テンポの設定が遅めだったのも、その一因である。

ただ、これには指揮者の解釈だけでなく、踊りやすいテンポで、といったようなバレーのほうからの制約もあるのかもしれない。

私は、西本智実の振るイルミナートバレエの「くるみ割り人形」の公演を観に行ったことがあり、これまた大変な名演だったが(そのときの記事はこちら)、このときは上記のCDと概ね同じテンポ設定であり、踊りのほうからの制約というものは感じなかった(もしかしたら、踊りのほうは音楽に制約されていたのかもしれないが)。

西本智実の公演ではバレーが音楽に従属し、今回の新国立劇場の公演では音楽がバレーに従属している、ということか。

一般に、バレーでは後者のやり方が多いように思われるが、私は前者のほうが好きである。

 

 

もう一つ、気になったことがある。

第2幕の幕切れの音楽が、他のものに変えられていたことである。

このことについては、他のブロガーの方の記事でけしからんとあったので、私も覚悟はしていたのだが、聴いてみるとやはりその方と同じ感想を持たずにいられなかった。

バレーでは、おそらくこういった「音楽の切り貼り」が少なくない。

「白鳥の湖」も、プティパ版とブルメイスティル版では、グラン・パ・ド・ドゥの音楽が異なっている。

やはり上記のように、バレーにおいては通常、音楽がバレー(踊り)に従属している、ということなのだろう。

オペラでは、このようなことはあまりない。

ブルーノ・ワルターが若かった19世紀末には、オペラもやはり同様の目にあっていたことが、彼の自叙伝「主題と変奏」に書かれている。

しかし、その後は現代に至るまで、指揮者と演出家の対立こそあれ、基本的には音楽が主導権を握り、演出がそれに従属しているものと思われる。

しかし、バレーではまだ逆なのだろう。

第2幕の幕切れは、確かにクララが夢から覚めたところなので、今回のように第1幕の眠る直前の音楽が戻ってくるというのも、分からなくはない。

しかし、ねずみたちと戦い、くるみ割り人形(王子)に恋し、共にお菓子の国を巡ったクララは、一回り成長したはずではないだろうか。

チャイコフスキーのもともとの構成のように、第2幕の音楽で決然と終わりを告げるのが、最も適していると思う。

今回のやり方では、結局クララはもとのまま、といった印象になってしまう(そのまま静かに二度寝でもしそうな勢いである)。

音楽のエンディングを変えてしまうのは、例えばヴァーグナーの「ニーベルングの指環」で、最後の感動的な「救済の動機」を「呪いの動機」か何かに変えてしまい、救済されなくなってしまうのと同じくらい、冒涜的なことのように私には思われる。

 

 

さて、次はバレー(踊り)について。

バレーの上手い上手くないということは、正直なところ私にはよく分からない。

分からないながらも、私は「くるみ割り人形」の映像作品の中では

 

●ロジェストヴェンスキー指揮ロイヤル・オペラハウス管盤 1985年1月ロンドンライヴ盤(DVD

 

が好きである。

いわゆるピーター・ライト版と呼ばれるもので、舞台が明るくゴージャスで、登場人物も多く華やか。

プリマを第2幕にしか登場させないのも、贅沢な配役である(プリマのファンにとっては物足りないだろうけれど)。

そして何よりも、演技が細やかである。

クララが喜んだり泣いたりする様子だとか、フリッツが怒る様子だとかが、何とも生き生きしている。

第1幕でねずみを退治したのち、倒れてしまったくるみ割り人形を見たクララの悲しみと、実は生きていると知ったときの喜び。

人形がいつの間にか王子になっていることに気づいたときの驚きと恥じらい、そしてそれが愛情に変わる―こういったことが、踊りながらであるにもかかわらず、手に取るように伝わってくる。

画質はやや古いし、踊り自体がうまいかどうかについては自信がないけれど、私にとってはこれが一番の「くるみ割り人形」である。

余談だが、この映像の収録の翌月には、同じロイヤル・オペラで、かの有名な「ばらの騎士」の映像が収録されており、こちらもまたとない名演となっている(ショルティ指揮、キリ・テ・カナワの元帥夫人、バーバラ・ボニーのゾフィーほか)。

この1985年という年は、ロイヤル・オペラの歴史の中でも一つのピークだったのかもしれない。

 

 

またもや脱線してしまったが、今回のバレーは、上記のような生き生きした演技(振付)は見られなかったものの、踊り自体は文句なく素晴らしいものに私には思われた。

プリマやキャラクターダンサーたちはもちろんのこと、コール・ド・バレーもみな大変うまい。

このうちの誰かがプリマとこっそり入れ替わったとしても、私は気づかない自信がある。

ところで、今回のプリマの池田理沙子は、東京では貸切公演のみのプリマ出演だったとのこと。

一般客は、彼女のプリマ公演を観られなかったらしい。

その意味では、私たちは得をしたといえるかもしれない。

ただ、他のプリマたちの公演も観られる東京の方々は、やはり羨ましいけれど。

 

 


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