ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 京都公演 ダニエレ・ガッティ マーラー 交響曲第4番 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

 

【日時】

2017年11月18日(土) 開演 18:00

 

【会場】

京都コンサートホール 大ホール

 

【演奏】

指揮:ダニエレ・ガッティ (ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者)
チェロ:タチアナ・ヴァシリエヴァ *

ソプラノ:マリン・ビストレム #

管弦楽:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 

 

【プログラム】

ハイドン:チェロ協奏曲 第1番 ハ長調 Hob.VIIb-1 *
マーラー:交響曲 第4番 ト長調 #

 

※アンコール

J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 第3番 ハ長調 BWV1009 より ジーグ

 

 

 

 

 

ロイヤル・コンセルトヘボウ管(旧アムステルダム・コンセルトヘボウ管)の京都公演を聴きに行った。

コンセルトヘボウ管を生で聴くのは初めてだが、これまで録音で聴いて想像していた通りの音だった。

ドイツのオーケストラのようなまろやかなコクとも、ウィーン・フィルのような美しいツヤとも、また違う。

コンセルトヘボウ管の音色は、もう少し薄味というか、色でいうと淡い色で、白に近い色のような気がする。

ただし、白であっても無色透明では決してなく、輝くような白、それもミルクのように(ときには生クリームのように)甘みのある白―そんなイメージの音色ではないだろうか。

弦もそうだし、管も一つ一つの楽器の音色が突出して魅力的というよりは、あらゆる楽器が方向性を無理なく共有できて、全体として上記のような雰囲気の音が作り出せている、といった感じである。

この「一人一人が突出せず全体の中にムラなく収まる」ことができるのは、奏者一人一人のレベルがおしなべて高いことの証拠だと思う。

 

 

今回のプログラムは、前半はハイドンのチェロ協奏曲第1番。

チェロ独奏は、タチアナ・ヴァシリエヴァ。

しかし、用事があって遅れて行ったので、残念ながら前半プログラムは聴くことができなかった(アンコールも聴けなかった)。

 

 

後半のプログラムは、マーラーの交響曲第4番。

この曲で私の好きな録音は

 

●ブーレーズ指揮クリーヴランド管 1998年4月セッション盤(NMLApple Music

●ネゼ=セガン指揮グラン・モントリオール・メトロポリタン管 2003年10月2、3日セッション盤(NMLApple Music

●アバド指揮ベルリン・フィル 2005年5月ベルリンライヴ盤(Apple Music

 

あたりである。

ブーレーズ盤は、局所の感情表現をできる限り排し、長いスパンでフレーズをとらえ、複雑に絡み合う各音の響きの調和と緊張をきれいに抽出した、クリアな演奏。

ここではマーラーを、後期ロマン派を代表する作曲家としてではなく、20世紀音楽の開拓者の一人として扱っている。

ネゼ=セガン盤はそれとは対照的に、できる限り細部の表現にこだわった、繊細きわまりない演奏。

あらゆる弦のパッセージが美しくフレージングされ、あらゆる管のひとくさりが繊細にニュアンス付けされており、そっけないところが少しもない。

凝りすぎだという人もいるかもしれないが、神経質なほど細かいマーラー特有の書法にはよく合っている。

そしてアバド盤は、ネゼ=セガン盤ほどの細やかさはないけれども、やはりニュアンスに満ちていて、かつ何というか、アバド特有の世界がある。

とてつもなく洗練されているのだが、それに拘泥するというよりは、どこか達観しているような。

「深み」? 「精神性」?

このような曖昧な言葉は、できれば使いたくはないのだが。

 

 

前置きが、長くなった。

今回のガッティの演奏は、どうだったか(ガッティを生で聴くのは、これが初めて)。

細部まで繊細に表現された、素晴らしい演奏だった。

先月聴いた、キリル・ペトレンコ指揮バイエルン国立管のマーラー「子供の不思議な角笛」にも匹敵する(そのときの記事はこちら)、完成度の高い演奏。

かつ、上述したようなロイヤル・コンセルトヘボウ管の美しい音色も活かされていた。

このオーケストラによるマーラー交響曲第4番の録音は何種か存在するが、そのうち

 

●ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管 2015年2月11、12日アムステルダムライヴ盤(NMLApple Music

 

は最もすっきりした名演で、上に挙げた3種の録音ほどの洗練はないけれども、同時期のハイティンクの録音のような重めの演奏に比べると風通しの良い、いわば「中庸」の演奏となっている。

今回のガッティの演奏は、このヤンソンス盤のコンセルトヘボウ管の美しい音色をそのままに、さらにネゼ=セガン風のすっきりした洗練を加えたような演奏、と言っていいかもしれない。

特に、第3楽章終盤の繊細な弱音が消え入るように終わったのち、アタッカで(途切れることなく続けて)終楽章のクラリネットが丁寧に入り、滑らかにオーボエやフルートへと受け継がれていくあたりは、コンセルトヘボウ管のレベルの高さも相まって、忘れ得ぬ美しさだった。

 

 

ただ、私の好きな若手指揮者たち、例えば上記のネゼ=セガンだとか、あるいはクルレンツィスなんかは、それぞれ音楽性は全く異なるけれど、共に驚異的なまでのこだわりがあって、聴いていると否応なしに惹きこまれるところがある。

彼らに比べると、ガッティは少しおとなしい。

その品が良さが彼の長所でもあるのだが、強烈なインパクトにはやや欠ける、といった面もあるかもしれない。

とはいえ、彼もまた現代きっての洗練された音楽性をもつ指揮者の一人であることは間違いないだろう。

 

 

なお、今回ソプラノ・ソロを歌ったマリン・ビストレムは、音程などやや不安定で、オーケストラのレベルの高さに比べると少し聴き劣りしてしまった。

ただ、今回はユリア・クライターの代役だったようなので、急遽歌ってくれただけでもありがたいというものである。

 

 

ガッティ&ロイヤル・コンセルトヘボウ管のコンビは、すでにマーラーの交響曲第2番を録音しており、なかなかの名演となっている(NMLApple Music)。

もし第4番を録音するのであれば、おそらく(私にとって)上記のヤンソンス盤以上の名盤になると思われ、楽しみである。

 

 


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