大阪フィルハーモニー交響楽団 第511回定期 スダーン シューベルト 「未完成」「グレイト」 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

大阪フィルハーモニー交響楽団

第511回定期演奏会 
 

【日時】
2017年9月26日(火) 開演 19:00 (開場 18:00)

 

【会場】

フェスティバルホール (大阪)

 

【演奏】
指揮:ユベール・スダーン

管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団

(コンサートマスター:田野倉雅秋)

 

【プログラム】
シューベルト:交響曲第7(8)番 ロ短調 D759 「未完成」
シューベルト:交響曲第8(9)番 ハ長調 D944 「ザ・グレイト」

 

 

 

 

 

大フィルの定期演奏会を聴きに行った。

指揮はスダーンで、彼の指揮を聴くのは昨年8月のPACオーケストラの演奏会以来(そのときの記事はこちら)。

今回は、シューベルトの「未完成」と「ザ・グレイト」というプログラム。

二管編成ながら16型という、弦楽器のウェイトの大きいどっしりとした編成であり、最近の少人数によるピリオド楽器の演奏とは異なっていた。

演奏も、低弦をしっかりと強調し膨らませる重厚なもので、「往年の巨匠たち」の様式を思わせるものだった。

「往年の巨匠たち」と言っても色々な演奏があり、例えばフルトヴェングラーのように、「未完成」の冒頭の低弦による序奏はあまり膨らませず、あくまで緊張感みなぎる弱音で通し、その後呈示部から展開部にかけてじりじりと盛り上げ、凄まじい「闘争」へと爆発させていくようなやり方もある(カラヤンやアバドもこの路線ではないだろうか)。

スダーンの場合は、むしろブルーノ・ワルターのように、冒頭の低弦による序奏からしっかりと膨らませて表情豊かに歌わせ、その後も劇的な緊張感よりはむしろシューベルト特有の歌謡性を大事にするような路線であった。

第1楽章第2主題のチェロのメロディや、第2楽章第1主題のヴァイオリンのメロディなど、美しい旋律の歌わせ方も、ワルターに通ずるところがある。

「ザ・グレイト」では、第2楽章の中間部から再現部へ移行していく部分での、低弦とヴァイオリン、ホルンのかけ合いの美しい扱いや、第3楽章冒頭での弦楽器全体による分厚い弾き方など(低弦がとりわけよく利いている)、これまたワルター盤に共通しているように思われた。

 

 

ただ、ワルターとは違った点も、また多々あった。

スダーンは、より現代的な快速テンポで一貫して通しており、リズムの扱いもくっきりしていて明快であった。

音の長さも、楽譜に書かれている以上に伸ばすようなことはせず、音楽の表情付け以上に推進力が重視される。

その意味で、彼もまたノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)の影響を受けた一人であるように思われる。

このような、重厚な古い様式と即物的な新しい様式との同居という点では、例えば前回の大フィルの定期を振ったエリアフ・インバルとも共通しているように思われる(前回定期の記事はこちら)。

ただ、インバルがより武骨でごつごつした演奏で、フレーズの移行やテンポの変化がしばしばぶっきらぼうともいえるようなそっけないものとなっていたのに対し、スダーンの場合はよりなだらかな音楽づくりだった。

 

 

今回の2曲では、個人的には特に「未完成」のほうにより強い感銘を受けた。

それは、「未完成」のほうが「ザ・グレイト」より名演だったというよりは、私が自分の中でしっくりくる「未完成」の理想の演奏にまだ出会っていないからだろう。

「ザ・グレイト」のほうは、

 

●クラウディオ・アバド指揮モーツァルト管弦楽団 2011年盤(NMLApple Music

 

が私にとっては最高の名演で、晩年のアバド特有の洗練された「軽み」がシューベルトにぴったり合っているように思う。

上記にも書いた、第2楽章再現部直前での低弦とヴァイオリン、ホルンのかけ合いは、もう精妙としか言いようのない表現となっている。

この演奏に比べると、今回のスダーンでさえ少しどっしりしすぎているように感じられる。

ただ、このあたりになるともう好みの問題だろう。

全体的には、さすがスダーンと思わせる演奏だった。

 

 


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