松本和将 京都公演 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第30、31、32番 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

「最後のソナタ」

 

【日時】
2017年5月23日(火) 開演 20:00 (開場 19:30)

 

【会場】

カフェ・モンタージュ (京都)

 

【演奏】

ピアノ: 松本和将

 

【プログラム】

L.v.ベートーヴェン:
ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109 (1820)
ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110 (1821)
ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111 (1822)

 

 

 

 

 

本当に素晴らしい演奏会だった。

 

ベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタ。

本当に、色々な意味で、弾くのがとても難しい曲だと思う。

三者三様の、限りなく広大で深遠な世界。

あらゆるピアニストにとって、永遠の課題となりうる曲ではないだろうか。

そんなこれらのソナタを、ベートーヴェンを得意とする松本和将が弾くとなると、聴き逃すわけにはいかない。

 

第30番は、3曲の中でも最も自由な、幻想曲とでも言いたくなるような形式のソナタである。

松本和将は、特に第1楽章など自由にテンポを揺らして幻想曲風に奏していたものの、全体的にはやはりいつもの彼らしいかっちりした演奏となっていた。

私がこの曲にイメージするよりは、少し剛毅な印象の強い演奏ではあった。

例えば、変奏曲形式で書かれた終楽章の、「いくらか遅く」と指示された第4変奏など、リード希亜奈の浜コンライヴ盤のような繊細で幻想的な演奏が忘れがたいが、松本和将の場合はこういった変奏でも豪快に響く。

こういった幻想曲風な曲でも、あくまでベートーヴェンらしさを失うまいとする彼の信条なのだろう。

 

次の第31番は、先ほどの第30番よりはややかちっとした、フォーマルなところのある曲である。

こういった曲では、松本和将の持ち味がよりしっかり生きてくる。

第1楽章の第2主題など、もう少し繊細に弾いてほしいと思わなくもなかったが、迫力に満ちた第2楽章、清澄な終楽章フガート、そして感動的な終楽章コーダ、いずれも本当に素晴らしかった。

色々工夫しこねくり回した良さというよりは、素材の良さで勝負するような彼のスタンスが、大変良い。

 

そして、最後のソナタ、第32番。

世紀の傑作と呼んでいいこの曲だけあって、シュナーベル、バックハウス、エトヴィン・フィッシャー、ヴィルヘルム・ケンプといった往年の巨匠たちもみな録音しており、もちろんそれぞれ名演ではあるのだけれども、いずれも巨匠ならではの「自分勝手さ」がどこかしら気になってしまい、結局録音では現在、誠実さの感じられるポリーニ盤(NMLApple Music)が最も好きである。

そしてこの曲こそは、今回の3曲の中でも、松本和将と最も相性の良い曲と感じた。

冒頭の序奏から、主要主題へとなだれ込んでいく部分、ここからしてもう完全に圧倒された。

この主要主題は、両手のユニゾンで書かれている。

つまり、一度に鳴らされる音は右手と左手のたった二音しかない。

それなのに、大オーケストラが奏する第九交響曲の主要主題にも全く劣らない、怒涛のような奔流のような、すさまじいまでに腹にこたえる迫力があった。

しかも、きわめて重要なことに、このすさまじい演奏は、決して「ラフマニノフ風」であることなく、あくまで「ベートーヴェン風」なのである。

つまり、古典的均整さを全く損なっていないのである。

続いて現れる、この主要主題に基づくフガートもそうだし、その後の抒情的な第2主題でも、美しい情緒を湛えながら決してロマン的になりすぎない。

松本和将ならではの、ニュアンスを込めすぎない、古典的なアプローチが、この曲にはとてもよく合っているように感じた。

そして、展開部での緊張の高まり、再現部での爆発。

くどいようだが、ここでもすさまじいまでの迫力と、決して甘くならない均整美とが、素晴らしいバランスで同居していた。

そのエネルギーが少しずつ沈静し、消えるように第1楽章は終わりを告げる。

 

その後に続く第2楽章。

この音楽は、もう、何と言ったら良いだろうか。

これに匹敵する音楽は、モーツァルトのピアノ協奏曲第27番や、クラリネット協奏曲など、ほんの数点しか思いつくことができない。

単純な和声、単純な旋律が、ここまで「深い」ものを表現することができるということの、この上ない実例であると言うほかない。

「深い」とはいったいどういうことか、と聞かれたら、私はもう説明を放棄するしか方法がない。

何がこの曲をこんなにも特別にしているのか、私には全く説明できないのである。

「運命」交響曲が素晴らしい曲で、こんなに隅々までこだわりの動機労作がなされている、といったのとは全く別の次元の素晴らしさが、この曲にはある。

最初の主題を聴いただけで涙が溢れ出るのは、必ずしも中学の頃からこの曲が好きだったという個人的な郷愁のみによるわけではないと思う。

松本和将は本当に過不足なく、余分な表現を何一つ付け加えず、それでいてぶっきらぼうになることもなく、この主題の本来の良さを自然に呈示してくれた。

続く各変奏も、てらうことのない誠実な解釈だった。

そして、短調に翳りがちな間奏を経て、主題の再現となるのだが、この間奏はさすがにやや武骨というか、もう少し繊細な表現が聴かれても良かったかもしれない。

しかし、そうしたらそうしたで統一感は損なわれたかもしれないし、またそのようなことはこれほどの演奏の前ではもう些事でしかなかった。

 

そして、主題の再現。

変奏曲(または変奏曲形式の楽章)では、最後に主題が再現するとは限らない(むしろ再現しない曲の方が多い気がする)が、この楽章では再現する。

主題が再現するという点では、先ほどの第30番の終楽章も同じであり、第30番では例えばバッハのゴルトベルク変奏曲と同じく、ほとんどそのままの形で主題が帰ってくる。

しかし、この第32番は違う。

主題が、最初とは全く違った大きなスケール感をもって帰ってくるのである(具体的には、三連符によるダイナミックな伴奏を伴って再現される)。

この部分は、聴き手を強く感動させずにはおかない。

シンプルな美しい志を抱きつつスタート地点に立ったベートーヴェンが、数々の経験、苦労、艱難を経ながらも自分を貫き奮闘してきた、そして最後に元いたところに戻ってきた、最初の頃の気持ちもまるで昨日のことのように思い出すことができる、しかし、なんと遥かなる旅路をたどってきたことだろうかと、これまでの自身の人生を顧みるような、そんな感動がここにはある。

再現は再現でも、最初とは、もう「展望」が違うのである。

全てを見はるかすベートーヴェンが、ここにはいる。

そして最後に、心のひだのような美しいトリルを伴いながら、主題がもう一度だけひっそりと奏されたのち、ベートーヴェンは静かなる眠りにつく―。

私にはそのような、「決別の歌」に聴こえてならないのである。

このような、西洋音楽の長い歴史の中でも屈指の美しさを誇る一場面において、松本和将の演奏の実に素晴らしかったことについては、私にはもうこれ以上付け加えることは何もない。

 

終演後、私は心からの拍手を贈った。

以前聴いたハンマークラヴィーア・ソナタのコンサートのときのように(そのときの記事はこちら)、ベートーヴェンに対する熱い思いをお聞きできるかと思い、力いっぱい拍手したが、彼は三度のカーテンコールののちにも、何も語ることなく舞台を後にした。

そのことで、むしろ私はよりいっそう強い感動を覚えた。

このような曲の、このような演奏の後に、付け加えるべき言葉など、ありうるだろうか。

まさにその通りだと思う。

だから、私がつらつらと書いているこのような言葉などは、あれほどに美しく燃え昇華していったベートーヴェンの音楽、松本和将の演奏の、燃えかすのひとかけらでしかない。

けれど、私にはそれしか術がないので、あの素晴らしかった音楽の片鱗だけでも残しておきたいと、こうして往生際悪くあがいているのだった。

 

 


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