玉井菜採 岸本雅美 京都公演 フォーレ ヴァイオリン・ソナタ第1、2番 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

「ガブリエル・フォーレ」
― 室内楽全集 vol.4 ―

 

【日時】

2017年4月4日(火)  開演 20:00 (開場 19:30)

 

【会場】

カフェ・モンタージュ (京都)

 

【演奏】

ヴァイオリン: 玉井菜採
ピアノ: 岸本雅美

 

【プログラム】

フォーレ:
ヴァイオリンソナタ 第1番 イ長調 op.13 (1876)
ヴァイオリンソナタ 第2番 ホ短調 op.108 (1917)

 

 

 

 

 

好きなフランス・ベルギー系の作曲家を3人選ぶとなったら、誰の名を挙げるだろうか。

ドビュッシーとラヴェルは、おそらくほとんどの人が挙げるだろう。

では、もう一人は、誰にするか。

バロック音楽の好きな人なら、クープランやリュリやラモーを挙げるかもしれない。

オペラ好きの人ならグノーやビゼーやマスネ、ロマン派の音楽が好きな人ならフランク、サン=サーンス、ショーソン、シャブリエ、ルクー、デュカスあたりになるか。

より新しい音楽が好きな人であれば、プーランク、オネゲル、デュティユー、メシアン、ブーレーズあたりを選ぶだろうか。

しかし、そこで「フォーレ」を選ぶ人も、決して少なくはないのではないだろうか。

かく言う私も、あまり迷うことなくそのようにするであろう一人である。

 

フォーレの曲からは、感情の表出をあまり感じない。

まるで吟遊詩人が「伝説」を語るかのように、落ち着いて淡々としている。

そこが、フォーレの魅力だと思う。

別のたとえを用いるならば、「灰色の真珠」。

クララ・シューマンが、ブラームスの間奏曲op.119-1を評した言葉だが、フォーレの音楽も、このブラームスの間奏曲の延長線上にあるような気がする。

ぱっと華やいではおらず、全体的に少しどんよりとした、しかし大変に美しい、澄んだ音楽。

さらに別の言い方をすると、フォーレの曲は、私にはメリザンドのような女性を思わせる。

メーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」は、ドビュッシーのオペラが有名だが、フォーレもこの戯曲のために劇音楽を作曲している。

その「ペレアスとメリザンド」に出てくるメリザンドは、いつも不思議な雰囲気を纏っていて、嬉しいのだか悲しいのだか、その感情は全くよく分からない。

彼女の瞳には「偉大なる無邪気」が湛えられ、仔羊よりも、神にも負けないくらい無邪気で、まるで天使たちが永遠にそこで洗礼式を挙げているかのよう。

彼女の夫であるゴローには、彼女の瞳を近くで覗き込むと、彼女が瞬きをする瞬間にその瞼の生々しさがやっと感じられるのだが、それでいてなお、あの世の大きな秘密にも増して、その瞳の秘密についてはいかばかりも知ることができないのである。

そして彼女の小さな声は、水よりももっと純粋で、まるで世界の果てから、春の海をはるばる渡ってくる風のような声なのだった…。

 

フォーレの創作期間は、作曲年代によって初期・中期・後期の3期の分けられることが多い。

上記のようなフォーレの音楽の特徴は、とりわけ彼の後期の作品から強く感じられる。

私は、最初は彼の後期の作品の良さがあまり分からず、例えば彼の初期の作品であるヴァイオリン・ソナタ第1番のように、まだしも感情表現がみられるというか、「優しいほほ笑み」のようなものが聴かれる曲に惹かれていた。

しかし、そんな私の眼を開かせてくれたのは、ヴァイオリン・ソナタ第2番だった。

この曲を何度か聴いていると、上記のようなフォーレの後期の特徴がだんだん分かってきて、感情表現のあまり感じられない、ほとんど無表情と言っていい、しかしラヴェルのようにガラスのような無機質な美しさではなく、内に秘めた感情のひだ(哀しみ?)が何となく垣間見えるような見えないような、そんな底の知れない美しさに、大きな魅力を感じるようになった。

今では、フォーレの後期の作品群こそが、彼を彼たらしめる真の傑作の宝庫だと考えている(こちらの記事で取り上げた「イヴの歌」もその一つ)。

こういった後期の作品の特質は、おそらくはその独自の和声進行からくるものなのだろうが、それをここで詳細かつ明確に説明することは、私にはできない。

 

ちなみに、ヴァイオリン・ソナタ第1番のほうは、私はファウスト/ボファール盤に聴かれる過剰にならないさわやかな感情表現をとりわけ好んでいるが、第2番ともなると、同じ奏者による盤は私にとってはやや感情表現が過多というか、張り切りすぎているように思えてしまう。

他盤に比べるとよほど素晴らしいのだが、それでも私は上述のように、もっともっと無表情に淡々と演奏してほしく、感情の表出については「垣間見えるか見えないか」程度に抑えてほしいのである。

そんな私は、最近では第2番についてはカントロフ/プラネス盤を聴くことが多い。

ここでのカントロフは、確かに大変美しい音だし、スタイルも録音当時としてはすっきりしたものだったのだろうとは思うのだが、私にとってはこの曲にしてはあまりにもヴィブラート過多で、豊かすぎる音になってしまっている。

しかし、プラネスのピアノは、決して叫ぶことのない淡々とした美しい語り口で、私の中でのこの曲のイメージによく合っているのである。

この第2番については、今後の録音に期待したいところである。

イブラギモヴァか、あるいはエベーヌ弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者であるピエール・コロンベ(なお、エベーヌ四重奏団によるフォーレの弦楽四重奏曲(NMLApple Music)やピアノ五重奏曲第2番(NMLApple Music)の録音は最高の名演)あたり、録音してくれないものだろうか。

 

前置きが長くなったが、今回カフェ・モンタージュのフォーレのヴァイオリン・ソナタ第1番、2番の演奏会を聴きに行ったのだった。

ヴァイオリンが玉井菜採、ピアノが岸本雅美。

彼らの演奏はきわめてドラマティックなもので、上記のような私の中でのフォーレのイメージとはかけ離れたものだった。

しかし、これはこれで大変興味深く聴くことができた。

第1番など、フォルテからピアノまでのデュナーミク(音の強弱)の大きな幅といい、重厚なテンポ設定といい、濃厚なフレージングやルバート(テンポの揺らし)といい、いわゆるフランス・ベルギー系の音楽のイメージとは全く異なる演奏で、まるでヴァーグナーの音楽を聴いているような錯覚に陥った。

実際、フォーレはヴァーグナーの影響を受けたと言われている(彼は「バイロイトの思い出」という曲も書いている)。

もしヴァーグナーがヴァイオリン・ソナタを書いたなら、このような感じになったかもしれない、と考えながら聴いた。

 

そして、第2番。

こちらも、演奏自体は第1番同様にきわめてドラマティックなものであった。

しかし、それにもかかわらず、こちらでは第1番と違って、ヴァーグナーの音楽という感じはなく、フォーレ以外の何物でもない音楽が感じられたのだった。

30歳頃に書かれた第1番に対し、第2番はなんと70歳を超えてから書かれている。

この長い年月の間に深まり熟成された彼ならではの書法は、この第2番の隅々にまで強く刻印されており、それは演奏様式如何に左右されないほどのものということなのだろう。

何という和声、何というメロディ、何という音階、何という分散和音!

この曲の生演奏を聴くのが初めてだったということもあり、出だしから最後まで惹きこまれっぱなしであった。

特に、終楽章のコーダ(結尾部)で、ピアノの低音部およびヴァイオリンに第1楽章の第1主題が回帰する箇所、そしてその後に第1楽章の第2主題が回帰する箇所。

本当に、感動的な瞬間である。

 

ヴァイオリンの玉井菜採とピアノの岸本雅美は、音楽の方向性がとてもよく似ていて統一されており、聴きごたえがある。

特に、岸本雅美の力強いタッチとロマン派的表現は、なかなかに魅力的であった。

また、このフォーレのヴァイオリン・ソナタ第2番は、この3月で創立5年となったカフェ・モンタージュが、作られるきっかけとなった曲であるという。

今回の演奏会は、同じプログラムで翌4月5日にも開催されるとのことであり、まだ聴いていない方は、ぜひ行ってみることをお勧めしたい。

 

 


音楽(クラシック) ブログランキングへ

↑ ブログランキングに参加しています。もしよろしければ、クリックお願いいたします。