東京・春・音楽祭 NHK交響楽団 ヤノフスキ ヴァーグナー 「神々の黄昏」 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

東京・春・音楽祭-東京のオペラの森2017-

東京春祭ワーグナー・シリーズ vol.8
『ニーベルングの指環』 第3日 《神々の黄昏》
(演奏会形式/字幕・映像付)


【日時】
2017年4月1日(土) 15:00 開演 (14:00 開場)

 

【会場】
東京文化会館 大ホール

 

【出演】
指揮:マレク・ヤノフスキ
ジークフリート:アーノルド・ベズイエン
グンター:マルクス・アイヒェ
ハーゲン:アイン・アンガー
アルベリヒ:トマス・コニエチュニー
ブリュンヒルデ:レベッカ・ティーム
グートルーネ:レジーネ・ハングラー
ヴァルトラウテ:エリーザベト・クールマン
第1のノルン:金子美香
第2のノルン: 秋本悠希
第3のノルン:藤谷佳奈枝
ヴォークリンデ:小川里美
ヴェルグンデ:秋本悠希
フロースヒルデ:金子美香
管弦楽:NHK交響楽団(ゲストコンサートマスター:ライナー・キュッヒル)
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:トーマス・ラング、宮松重紀
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン
映像:田尾下 哲


【プログラム】
ワーグナー:舞台祝祭劇 『ニーベルングの指環』 第3日 《神々の黄昏》

 

 

 

 

 

東京・春・音楽祭のワーグナー・シリーズといえば、音楽祭の中でも目玉の公演として評判が高い。

今回で8回目とのことだが、「ニーベルングの指環」ツィクルスの最終回ということもあり、来年からどうなるかもわからないため、今回初めて行ってみた。

指揮は、ヴァーグナーのスペシャリストとして名高い、マレク・ヤノフスキ。

彼の新旧の「指環」録音(旧盤はシュターツカペレ・ドレスデン(Apple Music)、新盤はベルリン放送響(NMLApple Music))はともに素晴らしく、今回の演奏会も期待して聴きに行った。

 

演奏は、やはり素晴らしいものであった。

彼自身の録音(特に新盤)と、基本的なスタンスは変わらない。

一言でいうと、「ノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)の最後の生き残り」といった印象である。

ノイエ・ザッハリヒカイトとは、20世紀初頭(特に第一次世界大戦後)に起こった、「感情的にではなく冷静に表現をしよう」という芸術上の運動である。

音楽においても、それまでのロマン派音楽の反動として、「奏者が各々勝手に感情を込めて演奏するのではなく、楽譜に忠実に演奏しよう。テンポも、変えるように指示されていない限りは変えることなく、一定に保とう(そして、ほとんどの場合は軽快な速めのテンポ)」という運動が起こったが、これがノイエ・ザッハリヒカイトである。

指揮者の場合、録音で聴く限りではリヒャルト・シュトラウスあたりがその最初期の人のひとりかもしれない。

その後、カール・シューリヒトやフリッツ・ブッシュらが続いていく。

戦後に短期間ではあるがリヒャルト・シュトラウスと交流があったゲオルク・ショルティは、一般的にはノイエ・ザッハリヒカイトの一員には数えられないかもしれないけれども、彼のあまりにも有名な「指環」全曲録音(ウィーン・フィル)からは、その影響がしっかりと聴きとれる。

ヤノフスキも、こういった流れを汲む一人なのではないだろうか。

こうした「楽譜に忠実に」という方針は、当時としては音楽界に一石を投じるものであっただろうけれども、現代となってはほとんど当然のこととなっているし、むしろ楽譜に忠実なのを前提として、その上でどれだけフレーズを滑らかに奏したり、あるいは情感を込めたりすることができるか、ということが争点になっているように思う。

そんな現代の私たちが、当時のノイエ・ザッハリヒカイトの演奏を聴くと、あまりにもそっけなく聴こえることがしばしばある。

上述のショルティの「指環」にしても、フレーズの滑らかさなどは現代ほど気にされておらず、全体的に粗い印象だし、それでいて往年の巨匠風の「重厚さ」もまだまだ残っていて、「過渡期」といった印象を受ける。

これに比べると、ヤノフスキはもう少し後の時代の人であり、フレージングなどずいぶん洗練されているし、現代でも十分に通用するスマートな演奏となっている。

ただ、速めのイン・テンポ(一定の安定した速度)でサクサク押し通すヴァーグナー演奏は、現代ではもうあまり聴かれないかもしれない。

最近の指揮者たちは、ティーレマンなどはもちろんのこと、シモーネ・ヤングのようなタイプの人でも、例えば「ジークフリートのラインへの旅」において、ジークフリートとブリュンヒルデの二重唱が終わった直後、全合奏によりフォルテ(強音)で奏される「ジークフリートの角笛の動機」から「ブリュンヒルデの動機」へとなだれ込む際には「タメ」を入れるし、その他「ジークフリートの葬送行進曲」や「ブリュンヒルデの自己犠牲」でもそれぞれそれなりに「タメ」を入れて情感を表出する。

しかし、こういった箇所でも、ヤノフスキは速めのイン・テンポでさらりと通りすぎるのである。

まさにノイエ・ザッハリヒカイトであり、そっけないのだが、これはこれで聴いていて小気味よい。

それだけでなく、彼は低音部を豊かに引き出す等して、N響という日本のオーケストラからもドイツ風の味わいを引き出してくる(上記のシュターツカペレ・ドレスデン盤やベルリン放送響盤ほどのドイツ風味は、さすがに聴かれなかったけれども)。

20世紀半ば頃の古き良きドイツの演奏を、現代風にリフレッシュしてよみがえらせたような味わいが、ここにはある。

 

しかし、である。

もし贅沢を言っていいのであれば、言いたいことが色々と出てきてしまうのも、確かである。

ヴァーグナーは、音楽とドラマとの高度な融合に腐心した人だった。

とりわけこの「ニーベルングの指環」では、壮大としか言いようのない神話の世界が展開されており、その最終章である「神々の黄昏」では、その世界の崩壊・終焉が描かれるのである。

「指環」を深く愛したとされる名ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルも、この連作の中でも「神々の黄昏」が最も素晴らしいと評したとのことである。

そしてそのリヒテルが愛した、フルトヴェングラー/RAIローマ響による、この曲のライヴ録音(CD)。

あるいは、フルトヴェングラー/ロンドン・フィルによる、この曲の抜粋ライヴ録音(NML)。

これらはもう、人類の至宝とも言いたくなるような演奏記録だが、ここでフルトヴェングラーは、ヴァーグナーの壮大なドラマを余すところなく描きつくす。

「夜明けとジークフリートのラインへの旅」では、本来明るく喜ばしいシーンなのだが、彼はここを怒涛のように畳みかけ、つかの間の歓喜でしかないこと、この後にとてつもない運命が待ち受けていることを表現する(なお、余談だが、ロンドン・フィル盤のほうでは、ジークフリート役がラウリッツ・メルヒオール、ブリュンヒルデ役がキルステン・フラグスタートという夢のような取り合わせで、フルトヴェングラーおよびこの2人という3者が揃った公演は、彼らの長いキャリアの中でもこの1937年の「指環」1サイクルしかなく、それが断片とはいえ録音され残されていることに、大げさに言うならば神に感謝せずにはいられない)。

第1幕の第3場などでは、オクターヴ跳躍下行の動機(「忠誠の誓いの動機」とも呼ばれる)の奏し方がいかにもすさまじくて腹にこたえるようだし、第3幕の「ジークフリートの葬送行進曲」でもかなり低音のどすが利いている。

そして、幕切れの、「ブリュンヒルデの自己犠牲」。

これこそは、吉田秀和の言葉を借りると、「カタストローフ(大破局)の表現にかけての内的な感覚を、他に匹敵するもののないような高さで所有していた」フルトヴェングラーの面目躍如といっていいだろう。

この部分は、上記2種の録音ももちろん素晴らしいし(特に後者のロンドン・フィル盤では世紀の名ソプラノ、キルステン・フラグスタートの全盛期の驚異的な声が聴ける)、また1952年録音のフィルハーモニア管盤(NMLApple Music)も聴きやすい音質で良いけれども、私としては同じくフィルハーモニア管との1948年盤(CD、オーパス蔵復刻盤)をお勧めしたい。

この録音の音質は最良とは言えないし、フラグスタートの声も衰えを見せ始めている。

しかし、ブリュンヒルデが放った火をきっかけに、あんなにも栄華を誇った神々の壮大なヴァルハラ城が、がらがらと轟音を立てながら燃え崩れていく、このあまりにもすさまじい情景を音楽で最も見事に表現されたさまを聴きたい場合には、この1948年盤が総合的にはベストだと思う。

この録音は、フルトヴェングラーによる「神々の黄昏」の全曲セッション録音が残されなかったという痛恨事を、かなりのところまで埋め合わせてくれている。

ヤノフスキの演奏は、例えば「ジークフリート」などにおいては、その歯切れの良い推進力が曲によく合っているのだが、こと「神々の黄昏」となると、フルトヴェングラーのほとばしるようなドラマトゥルギーと比べてしまうと、どうしても淡白に過ぎるように感じられてしまう瞬間がある。

 

あるいは、である。

この「神々の黄昏」は、40歳頃に「ラインの黄金」から作曲し始めたヴァーグナーが、「ジークフリート」の途中でいったん中断し、「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」という寄り道と言うにはあまりに豊潤な寄り道をしたのち、60歳近くになって着手した曲である。

最初の「ラインの黄金」からは20年近い歳月が経過しており、この間にヴァーグナーの書法はさらなる深まりを見せている。

とはいえ、「ラインの黄金」の時点ですでに彼の大胆な和声進行は完成されており、和声理論上は「神々の黄昏」との間に大きな断絶はなく、「指環」全体として統一感を失ってはいない。

しかし、「神々の黄昏」に聴かれる、不吉な、禍々しいともいえる独特の和声進行は、それ以前の3作の生き生きとした若々しい和声進行とは、一線を画しているように思えてならない。

この独特な、美しく禍々しい和声は、ブーレーズが言うように「ノルンの情景」や「ハーゲンとアルベリヒの情景」において聴かれるし、岩屋におけるジークフリートとブリュンヒルデの情景(第1幕第3場)や、ハーゲンと兵士たちの情景(第2幕第3場)など、他のあらゆる部分においても同様に聴かれるように思われる。

この和声が、それまでの3作とどう違うのか、私には明確に説明できないのだけれども(余談だが、こういったヴァーグナーの楽曲の分析を、文学的のみならず楽理学的に詳細に分析した、ベートーヴェンにおけるハインリヒ・シェンカーのような書籍はないものだろうか)。

ともかく、これがのちに、「パルジファル」のあの琥珀色ともいえる印象深い和声へとつながっていくのである。

この晩年のヴァーグナー独自の和声進行の響きを、この上なく美しくクリアに響かせたのが、ブーレーズだろう(Apple Music)。

彼は、バイロイト祝祭管というドイツ生粋のオーケストラから、非ドイツ的な、のちの20世紀音楽にもつながるような透明感のある響きを引き出している。

この和声的な特徴は、「神々の黄昏」において看過できない、重要な側面の一つではないだろうか。

ヤノフスキは、例えばクラリネットのひとくさりなど、弱音の部分において大変美しい味わいを引き出してはいるが、こういった晩年のヴァーグナー特有の和声を存分に展開するところまでは行っていないように思われる。

 

つい文句のようなことをつらつらと書き連ねてしまったが、これらは全て「贅沢を言えば」の話である。

ヤノフスキの演奏は、淡白ではあるが、演奏様式としてそれ自身、完成度が高い。

例えば全曲の幕切れ、上述の「ブリュンヒルデの自己犠牲」。

ブリュンヒルデの最後の歌唱が終わり、警句のようなハーゲンの最後の叫び声ののち、「ラインの乙女たちの動機」「愛の救済の動機」「ヴァルハラの動機」「薪の動機」などが網の目のように織り込まれ、ヴァルハラ城の崩壊を表現する箇所。

ヤノフスキはここであまり大きく盛り上げることをせず、壮大なカタストローフを表現しない。

しかし、それはそれで格調が高く、十分に良い演奏だったと思う。

少なくとも、この部分をあまりにも肥大化させすぎるティーレマンや、鈍重に過ぎるバレンボイムなどに比べると、よほど好印象であった。

 

歌手について。

ジークフリート役のアーノルド・ベズイエンとブリュンヒルデ役のレベッカ・ティームは、それぞれロバート・ディーン・スミス、クリスティアーネ・リボールの代役を急遽依頼されての出演であったという。

準備期間もほとんどなかっただろうに、来てくれただけでもありがたい。

ベズイエンは声量に乏しく、カーテンコールでも拍手は小さかったが、確かに物足りなかったものの、第3幕など好調のときはなかなかな美声を聴かせてくれた瞬間もあったように思う。

ティームはかなりの声量があり、高音部が粗めの印象があったが、堂々たる貫禄があった(カーテンコールでの拍手も大きかった)。

その他の歌手は、マルクス・アイヒェやトマス・コニエチュニーなど、名の良く知られた重鎮たちばかりであったが、とりわけハーゲン役のアイン・アンガーのどすの利いた低い美声が印象的であった(カーテンコールでの拍手も、指揮者に次いで一番大きかったのではなかったろうか)。

もちろん、歌手についても贅沢を言うと色々と書きたいことはあるのだが、今回はもうこのくらいにしておく。

 

最後に、映像について。

演奏会形式ではあるが、映像がついており、情景が分かりやすかったと思う。

あまり多くを語らない、やや漠然とした映像だったのが、音楽の進行を妨げず好印象だった。

最後のヴァルハラ炎上のシーンだけは、あまりに壮大な音楽に映像が釣り合わず、のどかな原っぱにぽちょんと建つヴァルハラ城を赤い炎が突然包み込み(地上からの炎が燃え移るというわけでもなく)、その炎が青くなったり白くなったりなぜか色調変化していったのには、観ていてきょとんとしてしまったが、まぁこれはご愛嬌ということで。

 

それにしても、ヴァーグナーの音楽の、見事なこと!

ブルックナーにも多大なる影響を与えたであろうことは、以前の記事にも少し書いた。

いくつもの主題が織りなす、壮大で複雑な音の絵巻物。

和声進行も、現代の私たちが聴いても、決して古びては聴こえない。

そして、彼の描く壮大な神話世界。

ギリシア悲劇にも勝るとも劣らないと言っていいのではないか。

それだけ壮大でありながら、それぞれの登場人物の織りなす人間模様は、一見特殊であるように見えても、実は現代の私たちにも十分に通ずるところのあるヒューマンドラマとなっている(特に親子の関係、そして夫婦の関係において)。

そしてさらに、人間社会の痛烈な反映にもなっている(富や権力への飽くなき欲望や、労働者たちのありようなど)。

ここで描かれた神々の終焉は、のちの20世紀における上流階級(宮廷やブルジョワジー)の終焉を、確かに予言していた。

そしてこれは同時に、ヴァーグナーの手によって行きつくところまで行きつくところとなった、いわゆる「クラシック音楽」の終焉を指し示してもいたのだった。

「クラシック音楽」が、書かれた同時代の人々によって聴かれ、それなりに大きな社会的・経済的影響力を持っていた時代というのは、19世紀末から20世紀初頭を最後に、終わりを迎えた。

燃え崩れていく「クラシック音楽」の最後の輝きを聴きとるからこそ、私たちはヴァーグナーの音楽にこれほど強く惹かれるという面も、もしかしたらあるのかもしれない。

 

 


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