関西フィルハーモニー管弦楽団 第281回定期演奏会
【日時】
2017年3月31日(金) 開演 19:00
【会場】
ザ・シンフォニーホール (大阪)
【演奏】
指揮:飯守泰次郎
ピアノ:若林顕
管弦楽:関西フィルハーモニー管弦楽団
【プログラム】
モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番
ブルックナー:交響曲第7番
つい先日、下野竜也/読響の演奏で聴いたブルックナーの交響曲第7番だが(そのときの記事はこちら)、今度は同曲を飯守泰次郎/関西フィルの演奏で聴いた(なお、遅れて行ったため、前半プログラムのモーツァルトは聴けなかった)。
そのため、つい比べてしまうのだが、飯守/関西フィルの演奏には、下野/読響に聴かれたような洗練は、望むべくもなかった。
弦の美しさといい、管の安定感といい、アインザッツのキレといい、下野/読響のほうが一枚上手だったと言わざるを得ない。
欠点を挙げるときりがないのだが、しかし、この演奏が駄演だったかと言うと、全くそうではなかった。
私は、このブルックナーの交響曲第7番において、①フルトヴェングラー/ベルリン・フィル1941年盤(断片)(CD)、②カラヤン/ウィーン・フィル1989年盤(NML/Apple Music)、③ケント・ナガノ/バイエルン国立管2010年盤(Apple Music)の3つの録音をとりわけ好んでいる。
この3つは、それぞれ、20世紀前半、20世紀後半、そして21世紀を代表する演奏だと思う。
飯守/関西フィルの演奏は、スタイルとしてはカラヤン盤よりもさらに昔の、フルトヴェングラーをはじめとする往年の巨匠たちの時代を彷彿とさせるものであった。
何が彼らの演奏をしてそのような印象たらしめているかというと、それは、ある種の「不器用さ」と言ってもいいかもしれない。
良い意味で、洗練されすぎない、整理されすぎない演奏(「有機体」という言葉を使いたくなるような)。
ちょっとやそっとでは動かないような、どっしりとした重さ。
これらは、往年の巨匠たちにあり、一方で、例えば現代のドイツの巨匠ティーレマンなどにはない類のものだと思う。
ティーレマンにも往年の巨匠たちのような重厚さはあるのだが、それでも彼の演奏は現代的に洗練されており、「人工」を感じさせる(対して、飯守泰次郎の演奏は「自然」を感じさせる)。
あるいは、ティーレマンからは「デジタル」を、飯守泰次郎からは「アナログ」を感じる、といってもいいかもしれない。
ただ、飯守泰次郎には、往年の巨匠たちと異なる点も、もちろんある。
例えば、彼の音楽にはフルトヴェングラーにあるような「悲愴感」というか、ドラマ性はそれほどには感じられない。
そういった「凄み」のようなものは、むしろ上述のティーレマンのほうからより強く聴くことができる。
また、飯守泰次郎は低音をごつく強調するようなことは、あまりしない。
低音を強調して、がっちりとした土台の上に大伽藍を築き上げるような、往年の巨匠たちによく聴かれるような音楽の作り方を、彼はしていないように感じた。
14型というやや小さめの編成であることも、ごつくならない原因の一つかもしれないが、それだけではないように思う。
低音部は「適度に」豊かに膨らませるにとどめ、壮大な大伽藍を築こうと気負うよりは、むしろ悠然とした音楽の流れそのものに自然に身を任せる…そんな印象を、私は彼の演奏から受けるのだった。
そして、彼の採るテンポは、意外なほどあっさりしているときがある。
第1楽章冒頭はかなりゆったりしているのだが、少しずつアッチェレランド(加速)して、第3主題ではけっこう速くなっている。
第2楽章も、第1主題はゆったりしているが、第2主題に入って急にテンポアップする(まるで、ベートーヴェンの「第九」第3楽章において、Adagio molto e cantabileの第1主題部からAndante moderatoの第2主題部に移行する箇所のように)。
第3、4楽章もけっこう速めのテンポで、「軽い軽いといわれるこれらの楽章だがとんでもない、まさにごついブルックナーそのものではないか!」と感じた昨年のメータ/ウィーン・フィルの演奏とは、全く違っていた。
そういった意味では、先日の下野/読響の演奏よりも特段遅いテンポだったというわけではなかった。
しかし、それでも全体として飯守/関西フィルの演奏が「悠然たる」という言葉の似合う印象だったのは、なぜなのか。
それはおそらく、上述のような「洗練されすぎない重さ」のためなのだろう。
作為を感じさせない自然なフレージング、歯切れのよすぎないアーティキュレーション、そしてクライマックスへと少しずつ少しずつ盛り上げていくセンス。
例えば、下野竜也の演奏では、第1楽章の第1主題を低弦が歌っている途中でもうかなり盛り上がっているというか、端正をこめて歌い上げている感じになっていたのだが、飯守泰次郎はここではまだ抑えており、楽章全体のクライマックスまで長いスパンで盛り上げていた。
第2楽章の頂点の部分も、ここへ向けて少しずつじわじわ盛り上げていく感じだったし、頂点でのティンパニも、下野竜也はシンバルやトライアングルの後でさらにティンパニをクレッシェンドさせるという「技」を使っていたのに対し、飯守泰次郎はそのようなことはせず自然に同じフォルテで叩かせていた。
下野竜也のときは「感心」したのに対し、飯守泰次郎の場合は「感動的」だったのは、このあたりに違いがあるのかもしれない。
どちらの演奏も素晴らしいことには変わりがないのだが、少なくとも、レガートとスタッカート、速いテンポと遅いテンポ、フォルテとピアノ、こういった対比の工夫が目立った下野に対し、飯守の演奏には「一貫性」があり、そういった意味ではブルックナーの交響曲にはよりふさわしいような気が、私にはしたのだった。
欠点があるにもかかわらず感動的な演奏、それで思い出したのだが、以前の飯守泰次郎/関西フィルによる演奏会で、「トリスタンとイゾルデ」第3幕を聴いたときにも、同様の印象を受けたのだった(そのときの記事はこちら)。
あのときは、欠点があるのに感動できるなんて、やはりさすがはヴァーグナーの音楽!と思ったのだが、今にして思えば、飯守泰次郎による演奏なればこその感動だったのだろう。
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