弓新 佐藤卓史 京都公演 ブゾーニ ヴァイオリン・ソナタ第2番 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

「F.ブゾーニ」

 

【日時】

2017年3月5日(日) 20:00 開演

 

【会場】

カフェ・モンタージュ (京都)

 

【演奏】

ヴァイオリン:弓新
ピアノ:佐藤卓史

 

【プログラム】

F.ブゾーニ:ヴァイオリン・ソナタ第2番 ホ短調 Op.36a (1900)

 

 

 

 

 

先ほどの「ラインの黄金」(記事はこちら)に引き続き、演奏会をハシゴしてしまった。

ブゾーニのヴァイオリン・ソナタを実演で聴く機会など、そうそうないと思われるからである。

ブゾーニのことはあまり知らないのだが、この曲は1900年、彼が34歳頃のときに書かれたようである。

1900年というと、後期ロマン派が最後の爛熟をみせようとしている時期、また一方で印象派などの近代音楽が花開きつつあるときである。

そんな彼のこの曲からは、ブラームスやヴァーグナー、バッハなど、色々な作曲家の要素がないまぜになって感じられ、なかなか面白い。

そしてタランテラ風の第2楽章では、彼にしか書けない(弾けない)ような、超絶技巧がふんだんに用いられている。

変奏曲形式の第3楽章では、バッハ風の美しいフガートが聴かれる。

重厚でありながらも、ブラームスほどには重心が低くなく、ロマンと華麗さとを併せ持っているような、そんな曲である。

 

弓新の演奏は初めて聴いたが、さすがだった。

本格的といった印象である。

細身の音ではなく、しっかりとヴィブラートはかけるけれども、あまり大きくかけて重厚な音を出すというよりは、短い範囲でぱりっとかけ、ノーブルな印象を受ける。

その分、と言っていいかどうかわからないが、ときどき音程が不安定になる箇所が聴かれるけれども、全体的には音程もほとんど安定している。

ノーブルといっても、第2楽章のような激しい部分では、かなり情熱的な表現、大きな音で聴き手を圧倒する。

やはり、うまい。

 

ピアノの佐藤卓史は、昨年12月にブラームスのクラリネット・ソナタの演奏を聴いた(そのときの記事はこちら)。

そのときは、私のイメージするブラームスとは少し異なった印象があった。

ブラームスは、やはり松本和将など、うまい。

佐藤卓史も、松本和将のような重厚さは持ち合わせているが、それよりももっと、ロマンティシズムのようなものが前に出ている印象である(このようなロマンティシズムは、逆に松本和将の演奏からは、あまり感じられない)。

そんな佐藤卓史のピアノは、ブゾーニのこの曲にぴったり合っていた。

爛熟した後期ロマン派の産物の一つであるこの曲がもつロマンティシズムを、彼は十分に表現していた。

そして第2楽章、このピアノ・パートは、見ていて人間の弾ける曲とは思えないような超絶技巧に思われるが、彼はこれを、ブゾーニならではの剛毅なダイナミズムを損なうことなく、弾きつくす。

感嘆するほかなかった。

 

この二人の演奏は、カフェ・モンタージュの数々の演奏会の中でも、屈指の完成度を誇っていた。

こんなことなら、先日のプーランクのヴァイオリン・ソナタも聴きに行けばよかった、と悔やまれる(この曲は、私の大好きな曲の一つである)。

弓新は、普段はチューリヒで研鑽を積んでいる、とのことである。

次に来日する際にも、ぜひカフェ・モンタージュに来てほしいものである。

 

 


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