チョン・キョンファ 大阪公演 バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ 全曲演奏会 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

チョン・キョンファ

J.S.バッハ 無伴奏ソナタ&パルティータ 全曲演奏会

 

【日時】
2017年1月25日(水) 19:00 開演

 

【会場】

ザ・シンフォニーホール (大阪)

 

【演奏】
ヴァイオリン:チョン・キョンファ

【プログラム】
J.S.バッハ:

無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第1番 ト短調 BWV.1001
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第1番 ロ短調 BWV.1002
無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第2番 イ短調 BWV.1003
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV.1004
無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第3番 ハ長調 BWV.1005
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 ホ長調 BWV.1006

 

 

 

 

 

チョン・キョンファというと、私にとっては懐かしい。

多くの著名なヴァイオリン協奏曲、例えばベートーヴェン、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、シベリウス、ブルッフ、こういった曲は、全て彼女の録音で最初に聴いたのだった。

彼女のしっかりとした音は魅力的だったが、その後五嶋みどりの細身でヴィヴィッドな音を知ると、チョン・キョンファを聴くことは減ってしまった。

だが、それは個人的な好みの問題であり、彼女が劣るということではない。

若い頃の録音ではやや粗めの音の出し方も聴かれたが、1980年代半ば以降の録音ではより丁寧な弾き方になっており(ベートーヴェンの協奏曲の新録や、ドヴォルザークの協奏曲、R.シュトラウスのソナタ、また小品集など)、演奏様式も堂々としたものになり、情熱が減退したともいわれることがあるが私は改善だと思う。

そして、最近の彼女の動向については、私はよく知らなかった。

Wikipediaによると、指の怪我により2005年から5年ほど活動を休止していたが、その後復帰したという。

最近は、久々の録音としてバッハの無伴奏ソナタ&パルティータがリリースされている。

その無伴奏の全曲演奏会が今回開かれるということで、聴きに行った。

 

聴いてみてまず言えることは、チョン・キョンファは、テクニック的には衰えたということである。

遅れていったため、無伴奏ソナタ第1番とパルティータ第1番は聴けなかったが、外のモニターでパルティータ第1番を聴いているときでさえ、その音程の不安定さが分かるほどであった。

音の出し方にもむらがあり、急に音が飛び出てきたり、粗い音が混じったりしていた。

去年聴きに行ったクレーメル(そのときの記事はこちら)の演奏は、衰えをあまり感じさせなかったが、歳の取り方というのは人によってだいぶ違うものである。

また、上述の指の怪我が、彼女のテクニックの変化に関与している可能性も十分に考えられる。

 

しかし、である。

彼女の演奏がつまらないものだったかというと、そうではない。

彼女の音色には、輝きがある。

きっと、若い頃にはさらに輝かしかったのだろう。

彼女は音楽院の学生時代、あまりに輝かしく大きな音を出すので「ライオン」と呼ばれていた、という話をどこかで聞いたような気がする。

そのときの名残は、今でも十分に感じられる。

よく通る、輝かしい音。

豊かなヴィブラートがかけられているが、ロシアのヴァイオリニストたち(もちろん全員ではないが)のように、こってりとした脂ののったような分厚いヴィブラートとも、また違う。

それよりはスマートで、なおかつ、より細身の音を出すヴァイオリニストたち(五嶋みどりやイブラギモヴァなど)よりはふくよかな音である。

昨年聴いた、ヒラリー・ハーンの音に近いところがあるかもしれない(そのときの記事はこちら)。

もちろん、ヒラリー・ハーンのほうが技術的にはずっと安定していたが。

そして、チョン・キョンファの、輝かしく、かつ往時よりは少し枯れたような音色は、ある意味でバッハのこれらの曲に合っていた。

その意味では、シゲティを想起させるといってもいいかもしれない(弾き方はシゲティとは異なっていたが)。

彼女は、シゲティに師事したこともあったそうである。

 

そして、今回のチョン・キョンファの演奏様式は、とても濃いものであった。

以前の比ではなく、テンポもデュナーミク(音の強弱)もみるみる変わっていく。

ラプソディックな、とてもクセのある演奏である。

上述のような、多少のミスや音の粗さは全く気にしない様子で、どんどん弾き進めていく。

かと思ったら、とても鮮やかなテクニックを披露してくれる瞬間もある(ソナタ第2番のフーガの結尾にみられる速いパッセージなど、完璧といってもよかった)。

音程も、合っているときと合っていないときの差が大きく、合っているときは完璧といってよかったが、合っていないときも多かった。

だが、そのような「むら」はテンポやデュナーミクの「むら」とも溶け合って、ラプソディックな一つのスタイルになっていた。

弾き直しも辞さない彼女は、通常なら欠点となるようなこういった点も含めて、彼女自身の「演奏様式」にしてしまっているような感があった。

そう、何となく彼女ならではの「世界観」を感じさせる演奏であり、技術的にもっとうまいヴァイオリニストはたくさんいても、これほどの個性を感じさせる演奏はなかなかないだろう。

その「世界観」は、演奏そのものだけにはとどまらなかった。

70歳近いのにピンと伸びた背筋、矍鑠たる歩み、まるで修行僧を思わせるような白い衣装、そして演奏前にゆっくりと足を開き、ヴァイオリンを構え、弓を準備する、その動作一つ一つが、きわめて堂々としており、彼女の「世界観」を表現しているように思えてならなかった。

世界の大舞台に何度も立ってきた人でないと、きっとこうはいかないだろう。

考えてみれば、彼女はアジアのヴァイオリン界を、長いこと一人で背負ってきたのである。

「ジネット・ヌヴー以来のヴァイオリニスト」、「ハイフェッツでもこれほどうまく弾いただろうか」などと評され(Wikipediaより)、世界のトップを駆け抜けてきたのである。

何ともすごいものである。

 

そんな彼女の演奏は、細身の音によるすっきりとした演奏を好むようになった私の趣味とは、異なるものであったのは確かだった。

しかし、例えば「シャコンヌ」など、ピリオド奏法風のすっきりとした様式が主流となっている今、正攻法の堂々たる演奏を聴かせてくれ、その風格には思わず感極まりそうになった。

堂々、風格、こういった言葉を使っているが、彼女は決して威張っていたわけではない。

最後の曲であるパルティータ第3番を弾く前には、聴衆に親しげに何か語りかけていたし(あまりよく聞こえなかったが、英語で「これはデザートよ」と言っているように聞こえた)、また終演後には舞台の方へ詰めかけたファン一人一人と握手しており、優しいおばあさんといった風情だった。

彼女の穏やかなほほ笑みは、その堂々たる演奏と同じく、聴衆に救いをもたらしたことだろう。

 

 


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