井上道義指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
大ブルックナー展 第5回
【日時】
2017年1月21日(土) 開演 15:00 (開場 14:15)
【会場】
兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール
【演奏】
指揮:井上道義
管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団
【プログラム】
井上道義:鏡の眼
ブルックナー:交響曲 第5番 変ロ長調
ブルックナーの交響曲第5番のコンサートを聴いた。
この曲を生で聴くのは、実は初めてか、あるいはずいぶん前に一度聴いたきりか、どちらかだと思う。
しかし、個人的にはこの曲はブルックナーの交響曲の中でも1、2を争うほど好きである。
この曲の、良いところは何か。
色々あるだろうが、一番の特徴は、フィナーレ(終楽章)が充実していることだろう。
これほど充実したフィナーレは、ブルックナーの充実した交響曲群の中でも、他には8番があるくらいといっても、過言ではない。
そして個人的には、8番のフィナーレよりも、この5番のフィナーレのほうがより好きである。
このフィナーレは、ベートーヴェンの第九に範を取って書かれているということは有名で、前の各楽章の主題が回帰したり、また充実したフガートで主題が展開されたりする。
だが私は、それに加え、ヴァーグナーの「ニーベルングの指環」からの影響を強く感じるのである。
例えば、フィナーレの展開部の冒頭に突然出てくる、朗々としたコラール主題があるが、これはヴァーグナーの「ジークフリート」に出てくる「さすらい人の動機」に似ていると思う。
いわゆる「ナポリの六度」風の特徴的な半音階的和声進行が、両者に共通している。
特に、「ジークフリート」第3幕の前奏曲では、この「さすらい人の動機」が金管によってフォルテ(強音)で勇ましく奏されるのだが、この部分はとりわけこのブルックナー5番フィナーレのコラール主題とよく似ている。
また、このフィナーレのコーダ(結尾部)。
この部分は全曲のハイライトといってもいい感動的な箇所だが、ここはヴァーグナーの「神々の黄昏」の最後の幕切れの音楽によく似ていると思う。
クライマックスの頂点に向かってゼクエンツ(反復進行)にて1音ずつ上昇していく和声進行(ここでは否応なしに緊張が高まる)、そしてその頂点で金管楽器により最強音で炸裂するコラール主題(「黄昏」では「ヴァルハラの動機」)、このときヴァイオリンではアルペッジョ(分散和音)風のパッセージ、また低弦では付点音型を主体とした第1主題が奏され(「黄昏」では同じく付点音型を主体とした、薪を積み上げるときの動機が奏される。動機の名は知らないが、薪の動機とでもいうのだろうか?)、その後いったん短調に翳ったのち、すぐに長調に戻って最高のクライマックスへと達する、これらの一連の流れは全く共通しており、ブルックナーがヴァーグナーの影響を受けなかったとは私には考えにくいのである。
ヴァーグナーの場合は、変ニ長調から始まり、めくるめく転調を繰り返してハ長調というかなりの遠隔調まで移ったのち、気づいたら最終的にはまた変ニ長調に戻っているという、きわめて大胆な転調が行われているのに対し、ブルックナーの場合は比較的穏当な範囲の調性にとどまっている、という違いはあるけれども。
とあるサイト(こちら)によると、1876年5月16日に交響曲第5番の第1稿(現存せず)が書き上がっているようであり、一方「ニーベルングの指環」の初演は1876年8月13日なので、この類似は偶然なのかもしれない。
しかし、もしかすると交響曲第5番の第1稿は現在の形とは大きく異なっていて、「指環」の初演後に大きな変更があり現在の形となったか、あるいは「指環」の初演よりも前に、ブルックナーはヴァーグナーから「指環」のスコアを見せてもらっていたか、どちらかなのではないかと私は考えている。
それほどまでに、両者の雰囲気は似通っていると思う。
そして、この類似こそが、ヴァグネリアンのはしくれである(と自分で勝手に思っている)私には嬉しいのである。
このフィナーレを聴くと、ブルックナーが「指環」の幕切れに対しきっと覚えたであろう大きな大きな感動に、思いを馳せることができる。
そしてブルックナーのすごいところは、ヴァーグナーの書法をたっぷりと吸収しながら、それでいて完全な模倣にはなっておらず、彼独自の音楽になっていることである。
前置きが、長くなった。
そんな第5交響曲を、今回生演奏で聴いたわけである。
前プロの井上道義の自作は、残念ながら間に合わず聴けなかった。
後半のメイン・プロのみ聴くことができた。
演奏は、私の好みとは異なる点もあった。
第1楽章、序奏はゆっくりと始まり、休符をかなり長めに取って、ちょっともったいつけたような感じがあった。
主部は比較的サクサク進むが、第2主題はまたかなりゆっくりになり、フレーズの終わりごとにいちいちリタルダンド(だんだん遅く)をつけるのが、ちょっとあざといというか、気になった。
また、スケルツォでは第2主題でいったんテンポを落とした後、少しずつテンポを速めてもとの第1主題のテンポに回帰するのだが、ここでのテンポの戻し方がかなり遅めだったのも特徴的だった(個人的にはあまり好きにはなれなかった)。
さらに、フィナーレのコーダ前に、なぜかいったんかなりテンポを落とす箇所があったりもした。
ただ、上述のようなあざとい点は全体的にはそれほど多くなく、井上道義のまるでやんちゃ坊主のような指揮ぶり(スケルツォやフィナーレの第2主題では、まるでダンスでも踊っているかのようだった)の割に、その音楽は比較的ストレートだった。
低弦を分厚く強調したり、音楽をごつごつさせたりすることなく、むしろ淡々と進めていく感じ。
音楽的にやんちゃなところというと、ときおり金管をやたら歯切れの良いアーティキュレーションで強調させることくらいか。
フィナーレの第1主題も、そのままのテンポでさらっと進めていく(なお、クレンペラー/フィルハーモニア管盤は私の大好きな演奏だが、ここだけはかなりテンポを落としており、物々しい大時代的な表現になってしまっている)。
こういった淡白な表現は、昨年聴いたベートーヴェンの「英雄」では少し食い足りないと感じたのだが(そのときの記事はこちら)、ブルックナーともなるとそもそも曲が分厚いので、ある程度すっきりやってくれたほうがごてごてしすぎず、変に重厚な演奏よりよっぽど良い。
すっきり風通しが良く、大フィルの弦や管の良さが損なわれずそのまま味わえた(ヴァイオリンによる高音のフレーズなど、なかなかの美しさだった)。
ただ、さきほど長々と書いた、フィナーレ展開部冒頭のコラール主題や、そして感動的なコーダ、こういった「聴かせどころ」でさえも、ほとんど「タメ」ることなくそのままさらっと通りすぎて行ってしまうのには、さすがに物足りなさも感じた。
そして、このコーダでは、金管楽器には圧倒的な最強音で演奏してほしい!
先ほど挙げたクレンペラー盤では、ここで実に迫力ある剛毅な力感を呈してくれる。
それでいて、決してうるさくならず、各々の音がクリアに響いてくるのである。
今回の演奏では、このコーダでの力感が不足して物足りなかった(このコーダは、他の部分では相当に素晴らしいスクロヴァチェフスキ/ロンドン・フィル盤でも、同じく物足りない)。
しかし、そうはいっても、やはり曲が素晴らしい。
まるでヴァルハラの大伽藍のようなこのコーダ、前述のようにゼクエンツでじりじり盛り上げていき、コラール主題によるクライマックスに突入したあたりで、もう十分に感動してしまった。
やっぱり、なんだかんだ言っても、生演奏は素晴らしいものである。
このような世紀の傑作を生演奏で聴けるのは大変ありがたいし、その傑作たるゆえんを肌で感じるに十分な演奏であったことは確かだった。
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