堺シティオペラ 第31回定期公演
リヒャルト・シュトラウス 歌劇「ナクソス島のアリアドネ」
【日時】
2016年9月11日(日) 14時開演(13時開場)
【会場】
ソフィア堺(堺教育文化センター)
【演奏】
指揮 牧村邦彦
演出 岩田達宗
管弦楽 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団
制作統括 坂口茉里
今年は「ナクソス島のアリアドネ」初演から100周年というので、ひとつ聴きに行ってみた。
このオペラ、ずっと気になっていたのだが、全曲をちゃんと聴く(あるいは、観る)ということをこれまでしないできた。
いざ観てみると、まず台本が素晴らしいと感じた。
モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」と同じく、「貞節」がこのオペラの一つのテーマとなっている。
テセウスを死ぬほど愛していたアリアドネは、見捨てられ大きな悲嘆にくれる。
しかし、そんな崇高な愛に生きる彼女も、4人も恋人がいる浮気なツェルビネッタと全く別世界の人間かというと、そうではないのである。
むしろ、愛を求めているという点においては、二人はちっとも変わらない。
だから、死のうとしていたアリアドネも、バッカスの大きな愛に身をゆだねるのである。
浮気なツェルビネッタだって、軽薄なようでいて、実は変わらぬ愛にあこがれている。
さらには、「君らとは次元が違うんだ」とでもいわんばかりに、アリアドネの崇高な愛をむきになって主張する若き作曲家も、ツェルビネッタのそんな一面をみて、すぐに恋に落ちてしまう。
どんなに性格が違っていても、根底はみな同じなのだ。
そのことを、この作品の台本作者であるホーフマンスタールは、20世紀的な洗練をもって教えてくれる。
先ほど挙げたモーツァルトの「コジ」もまた、貞節について問題を提起した作品だが、その台本作者であるダ・ポンテは18世紀の人であり、まだ「お芝居」として他人事のように笑って観られるように作ってある(掘り下げると実はとても苦い話なのだが)。
だが、ホーフマンスタールは20世紀の人である。
彼の洗練されたストーリーおよび語り口は、聴き手にも「私だって、やっぱり同じ」と自分のこととして身に染みて感じさせずにはおかない。
これは、やはりシュトラウスとホーフマンスタールの手になる「ばらの騎士」でも同じことがいえる。
「ばらの騎士」では、「望ましからぬ愛(つまりは浮気や不倫)」「愛のはかなさ」「時間のこわさ」などがテーマになっており、ここでもそのストーリーやセリフは聴き手に対し真実として迫るものがある。
そして、こういった「真実」を、笑いの中に上品に呈示してくれているのがまた良い。
話は「アリアドネ」に戻るけれども、オペラと喜劇をくっつけるという荒唐無稽な展開にはらはらさせられるし、アリアドネの話が退屈になってきたところで、ちょこちょことツェルビネッタが茶々を入れて笑わせてくれるため、飽きないようになっている。
ホーフマンスタール、巧いと改めて感じた。
そして、シュトラウスの音楽。
これがまた、ホーフマンスタールの台本にまったくひけを取ることなく、洗練されているのである。
彼の音楽は、泥臭い精神の苦悩の表出というよりはむしろ、職人芸というか、大人の洗練をもっている。
これほど台本と音楽の質がマッチした例も、そう多くはないのではないか。
シュトラウスは、台本にぴったり合った音楽を書くことができる。
だからこそ、あの激しい不協和音が次々と登場する「エレクトラ」のすぐ後に、モーツァルト風の美しい旋律をもつ「ばらの騎士」を書くことができたのである。
この2作の間にある大きな断絶に、シュトラウスの「後退」を指摘する人がいる。
しかし、私はそれは違うと思う。
「ばらの騎士」が大ヒットしたために、その後も彼(とホーフマンスタール)はこの路線で進めていったけれども、もし「エレクトラ」のような大悲劇があったならば、シュトラウスはきっとそれにぴったりの音楽をやはり書いただろう。
彼は後退したのでなく、ただテクストにぴったり合う音楽を書く能力を持っているだけなのである。
そして、需要に合わせた音楽を書く(もちろん、そうでないこともあっただろうけれども)。
その姿勢はまさに職人であり、バッハやモーツァルトといったかつての天才たちと全く同じ態度なのであって、それをもって批判するには当たらないと私は思う。
演奏はというと、不満な点も多々あったが、この素晴らしい音楽を楽しむにあたって大きな不足は感じなかった。
特に、オーケストラはなかなかに美しかった。
そして演出も、適度に現代風ながらも、よくあるようなハチャメチャなものにはなっておらず、関西風のネタもあちこちにちりばめられていて、存分に楽しむことができた。
やっぱり、舞台はいいものである。