生理痛で下っ腹が痛いんでゴンスよ。
頭の中に浮かんできた言語をそのまま書き留めたらこうなった。どこかの宇宙人が脳内を乗っ取っているに違いない。
生理痛でこの有様だ。映画などで見るような「脚を撃ち抜かれているのに指示を出す」とか「死ぬ間際であるのに遺言を残す」というのは、なんという感嘆すべき精神力だろう。
まあ、大体フィクションだが。
###########
私は元来、大した痛み体質を持たない。
生理痛も若い頃は「お腹がゴロゴロするな〜」とほぼ同義だった。
「私、偏頭痛持ちなんだよね〜、コレはもう遺伝」とか溜息をつく知人を見ると「何だか知的でカッコいい、羨ましい」と思っていた。
胃痛の様子も繊細さを感じるし、生理痛などは下腹部を押さえて眉をしかめる若い乙女の姿に、「はー、色っぽいもんだなー」と立ちのぼる香気を嗅いであやかりたいくらいの気持ちで見ていた。
そんな皆さん、本当に申し訳なかった。
体内の痛みというのは体力もさることながら、中々に精神を削るものなのだな。
更年期にさしかかったせいか私の近年の生理痛は非常に重い。若い頃のツケを払わされている気分だ。
予備の痛み止めが外出中のバッグにない本日、家に帰るまで我慢すべきか、財布を空にしてでもどこかの薬局に寄るか、真面目に思案している。
##########
先ほど「脚を撃ち抜かれているのに指示を出す」人への感嘆を述べたが、私自身も外的な痛みには比較的強い。
小学生の下校時に脛の肉を削る怪我をした。しかし血をダラダラ流しながらも自力で歩いて家に帰った。
単に過疎の町で家まで人っ子ひとり出会わなかっただけなので、これは私の我慢強さというより結果論に近い。
それよりも鍛えられたのは20代前半に行った永久脱毛である。
私が今47歳であるからして、逆算しておよそ20年以上前。その時代の永久脱毛の技術はシンプルかつ原始的だった。毛穴に細い針を刺し(これは髪の毛より細いし、元々ある穴に入れるだけなので痛くはない)電気を通してひとつずつ毛根を焼くのだ。その痛みは筆舌に尽くしがたい。
一本でおよそ1分。一回につき2時間。120本前後行う。当然ワキにしろ足にしろ1回できれいにはならない。
しかも毛周期の関係上、施術した120本のうち確実に死んでいるのは30本がせいぜいである。それが何故かの説明は省く。
ともあれ私の時間の都合もあったが、ワキとヒザ下を完全に処理するまでおよそ月3回丸5年は通い続けた。
それだけの苦行をこなしていれば痛みをやり過ごす技も身につく。
私が編み出したのは
「1:痛みを脳に認識させない」
「2:与えられる痛みより大きく悲惨な状況を想像する」の2つである。
########
ワキは1の方法で何とかなった。
痛みも広く言えば刺激のひとつに過ぎない。「外的な刺激」としては爪で引っ掻くことや撫でられることとカテゴリは同じである。
「刺激はある。だがこれは痛みではない」と思い定めるのだ。とにかく己の中でそう決める。
すると多少ブルブルする感覚はあるが「痛く」はない、という境地に辿り着く。
脳にそう判断させないからだ。
これだけでも相当の悟りを開いたと思ったが、ヒザ下はそんな甘いものではなかった。昔、脛を怪我したという自負で心がおごっていたのかもしれない。
イケると思って臨んだヒザ下施術1回目。中止こそ嘆願しなかったものの、終わった時の私は白目を剥いていた。
忘れていた。
ヒザ下には、脛には、骨があるのだ。
骨の傍に麻酔もなく電気を流される衝撃。骨から遠く柔らかいワキの比ではなかった。ちなみにふくらはぎ裏は骨からは遠くとも刺激が脚全体に伝わりやすい筋肉と神経の構造になっている為、オモテ面より更に痛い。
もちろん1の「コレを痛みとしないと思い込む」方法もやってはみたが、そんな誤魔化しを嘲笑うように「世界の誰が何と言おうと、コレは痛みでしかないぞ〜〜!!!」と脳が叫ぶ事態になった。
追い詰められた私は、とにかく耐えた。耐えながらも悔しさのあまり、この痛みを誰かに話すとしたら何と表現すれば伝わるだろうと考えていた。
小学生時代の怪我の概要である「コンクリートの角を踏み外して脚を下ろしたが為にその角で脛を削る」も考えてみたが、あれは一瞬の出来事だった。脱毛のように断続的に続く痛みより単純なものである。
では何だ。
もとより生まれて初めての痛みなのだから経験を求めても言葉は出てこない。脳裡に本で読んだ様々な拷問のシーンが浮かんだ。だがヒザ下に一点集中した拷問など聞いたこともなかった。
当時はまだ中世ヨーロッパにそれほどの興味はなかったが、とにかく文明社会が根付く以前の、獰猛で野蛮で無慈悲な何かが私を苛む状況を力を振り絞って想像しようとした。
人の想像力とは矮小なものである。
結局、考え抜いた末に閃いたのは小学生の社会の授業、何かのビデオで見た「森林伐採用の斧」だった。
猛々しい戦士が、それに似た武器を私の脚に向かって構える。
多分、道具としての細部はかなり違うはずだが、そんなことにこだわっているヒマはなかった。
脳のヴィジョンの中で彼が渾身の力を込めて振り下ろす。
来た!これだ!ハマった!と思った。
だが私はここで更なる人体の、というか脳の不思議を体験することになる。
これだ、この説明ならきっと聞いた人はわかってくれる。もはや全然違う方向で歓喜した私は、同時にあることに気づいた。
「それが起こったにしては、痛くない」
いや、痛いは痛い。そこは変わらない。
だが私が想像する鋭く重い斧で、私が想像する筋骨隆々とした狂戦士が、敵を滅せんとばかりに振り下ろしたにしては、
その結果は、こんな痛みじゃないだろう?
阿呆らしいほど記念すべき「痛みを乗り越えた場面」だった。
何しろ私の脚はまだ切断されてもいないし、血も流していない。想像の中の狂戦士はますます怒り狂って再び斧を振りかぶる。叩き下ろす。
う〜ん、
それをされているにしては痛くない。
私の脳が「刺激を測る目盛り」に新たな振り幅を刻んだ瞬間だった。
########
おかげさまで(?)一般の女性はおろか男性ですら戦慄するような外部刺激に関して私は異様に強くなった。
また痛みを怖がらなくなった結果、痛いだろう事態に取り乱さないという付加価値までついてきた。
先日も近代的なビルのテラスで、美しいタイル張りであるが故に、その模様としてしか認識できない端の排水路に足を取られてすっ転んだ。傍目には素晴らしくもんどりうって倒れたように見えたらしい。
しかし私としては「引っかかった」と認識した瞬間、脚の筋が捻れないように、かかった力のベクトルに体の向きを合わせ、自慢の厚さを誇る腰の脂肪を地面に当て、中年ならではのもっちりとした背脂で頭部への直撃を阻止し、その形に沿うように両手をひろげたにすぎない。まあ、バッグは結構な距離を飛んでいったが。
派手な横向き五体投地に周りはザワついたものの、本人はベストな体位が取れたことで至極満足し、悠々と立ち上がった。「大丈夫ですよ」と周囲に微笑みさえした。
当然、擦り傷ひとつなく足首も無事だった。
#########
嗚呼!
これほどの剛の者と成った私なのに、ほんの小さな体内の痛みに……生理痛に、これ以上耐えられそうにない。
何かの本で読んだ歴戦の勇者が歯痛で泣き崩れる話も、さもありなんと思う。
交通費を除くと残り108円になった財布を見ながら、買ったばかりのイブEXを開ける。
駅構内を歩きながら白い粒2つを口に放り込む。もちろん水など無い。何度かの似た修羅場をくぐることにより、それくらいは簡単に嚥下できるようになった。
#########
人は経験によって新しい自分を手に入れる。どんな経験も無駄にはならない。
だが本当は、
若い頃からちょっとした生理痛に愁眉をひそめ、
「脱毛ってどうしても必要なの?」と真顔で友達に尋ねる(本当に訊かれたことがある)ほど体毛が薄く、
ちょっと壁にぶつかっただけで「いたぁ〜い」と涙ぐみ、
転んだりしようものなら両手で顔を覆ってパニックに陥り、
「水無しで薬は飲めないんですぅ」とほざく者でありたかった。
何しろその方が断然、可愛い。
私だってなりたくて剛の者になったわけじゃない。
だが仕方ない。
私の人生はそうだったのだ。
幸か不幸か生理痛に眉をしかめる資格は、今さら欲しくはなかったが40代になって手に入った。
痛みの猛者としての逞しさも年齢につれて衰えていくだろう。
そして何より、全く望みはしなかったのに鬱という病も我が物となった。
強さも弱さも道程の記録であり、他ならぬ「私の」ものである。可愛いか可愛くないかは別の視点だ。
借り物や真似事でなく、
誠に私の物であるかどうか。
その真贋だけを問うて、
我が価値を決めていこう。