「洋服は高価でも良い物を買い、長く着るのが最もエレガント」
上質な肌触り、縫製の仕上がり、シルエットの美しさ。最高ランクを知ってしまえばそれ以下のものは買う気にならない。
結局、粗悪品をふらふらと買い漁ることなく節約に繋がる。
これは誰の言葉というではなく、おしゃれの極意を語る時に何処かから必ず出る論説だ。
全くである。
ぐうの音も出ないほど正論である。
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だが私はこれにひとつの落とし穴を見る。
洋服に限ったことではないのだが、この論説を若くして我が物と出来るのは「本当に良い物に触れることが人生の早い時期から可能だった人」だけなのだ。
例えば裕福な御令嬢御子息、または服飾に関する仕事を見て育った者、美意識の高い粋人を親に持った子供。
本当に良いものが最も華美とは限らない。
最高級のものが流行の最先端であるとも限らない。
日用使いできる高級品と、格式を示す高級品との違いもある。
少なくとも20歳の頃の私にはその差はさっぱり分からなかった。
先のような教養を育ちに含まなかった者にはまず学びが肝要だ。しかもファッションにおいては数学でいうところの「初期方程式」を覚えたぐらいでは「おしゃれ上手な人」とは呼びがたい。
これは私が呼びたくないというだけでない、厳然たる事実だ。
例えば春の定番カラーはパステル系だと知識で知ったからといって、全身水色で靴まで揃えただけのムッチリ40代マダムの私を誰が「おしゃれだ!」と言うだろう。
そのチグハグぶりがそのまま20代で展開していたと想像してもらって構わない。
方程式をある程度知った上で、何は無くとも場数をこなさないと目は肥えない。失敗しようが格安セールだろうが、服を取っ替え引っ換え雨浴びるように着てみなければ「理論の検証」と「私という素材を実験対象にした場合」のデータは計測できない。
これはそこそこ「おしゃれアイコン」として知られるモデルとも、仕事の空き時間に溜息交じりで語り合ったことだが、
「洋服って結局は数をこなさないとね~」
である。
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今日、山手線で渋谷を通った時、ある事実に愕然とした。
電車の高架から見ると、かの「109」ビルの文字の左に「ユニクロ」、右に「H&M」の看板がきれいに横並ぶのである。
価格帯はともかく、渋谷系おしゃれのシンボル「マルキュー」の隣にファストファッションの代名詞たる2つのブランド名が燦然と輝く日が来ようとは!
ある意味、感無量だった。
私が渋谷をホームグラウンドとしていた大学時代から社会人初期。
その頃からいつも何らかの文化的爆発が起きている楽しい街ではあったが、バブル期やデザイナーズファッションの潮流で、とにかく服は全て高かった。109だってけっこう敷居の高い場所だったのだ。
初任給のいくらかを注ぎ込んで「これぞ一生モノ」と渋谷で買った服が、翌年にはどうにも流行に合わない代物に成り下がっていた絶望を私は逆に一生忘れない。
ともかく良い時代になったものだと思う。
現在の景気では服飾にかけられる予算も昔に比べて小さかろうが、その中で楽しめるバリエーションは数倍、いや数十倍と言っていい。道理で街行く人々の姿は「おしゃれ」を通り越して「シック」なわけだ。
特に気負いもない日常服だろうに、ほんの少し色や柄アイテムを差したり、流行型のトップスに上手に定番型のボトムを合わせたりして、みんな自然に個性を出している。太っていても痩せていても、それをそのままマイナスに感じさせる着こなしは少ない。
妙に気張りすぎてバランスを崩している人なんて、休日に無理矢理街に出てきたお父さん世代くらいしか見当たらない。しかも男性は御老体になればなるほど、女性顔負けの洒落者が多い気がする。
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おそらくは今こそ冒頭の言葉「洋服は高価でも良い物を買い、長く着るのが最もエレガント」が日本においてやっと花開く時ではないかと思う。
安い服でも感覚を磨けば充分に洒落た人生を楽しめる。それだけの洗練を皆が手軽に学べる時代になった。
その教養あったればこそ、高価格に裏打ちされた「上等」に本物の感動を見い出せる。
そんな目利きが世のひと握りではなく御近所にもいる時代になった。
もちろん、おしゃれの世界は奥深い。少しでもそれを愛するならば「ここが世界の果て。もうおしゃれをしなくていい」なんて時は永遠にやってこない。
だから楽しいのだ。
春は何度もやってくる。
今年の春はきっぱりと新しい春であり、
去年の残り物ではない。
新しい服を欲しくもなろう。
私が口元を緩めてウインドーショッピングに勤しむのも仕方ない。
たとえ実際はお財布様の厳しい要請を受け、
「3年前に買ったワンピースに、学生時代から使っているカーディガンと、○ニ○ロの値下げ500円で買えるスカーフを合わせれば、少しはこの着こなしっぽくなるかな?」
が本音だとしても。
私は大した上物の服は持っていない。
だがそれなりに長い洋服彷徨の末の「こんなスタイルで、こんな材質の、こんなモチーフが入った春の○○○なら大枚をはたいても惜しくない」などという理想像だけは完成に近づきつつある。
そしてなんのかんの言おうが私は「高価な良い物」神話の熱心な信者なのだ。
いつか恋人に婚約指輪を贈るような気持ちで「高価なれど一生モノ」の服を(鞄でも宝石でもいいが)私のクローゼットにお迎えしたい。できるなら何人でも!
単に今年の春もまた、運命の出会いがなかっただけだ。
悔し紛れにそう呟いて私はショーウインドーを後にした。