今日11月26日は、母の命日です。18年前だから父との二人の生活も丸18年。
ブログの初めに母の最後を書いたが、母の事をもう少し書こうと思う。
母は、「慈母」という言葉がピッタリの人だった。優しくて、聡明で、機知にとみ、面倒見がよくて懐が深い、たいへんおおらかな母だった。
父は、母が亡くなったあと「竹を割ったような、とてもあっさりした性格」と形容していた。
私が父をみることを運命と思うなら母は、この「はび家」を切り盛りするために嫁いで来たのではないかと思う。
うちの両親は地域のいろんな役を引き受け、父、祖父も長男であった為、人の出入りがとても多い家だった。
今は持ち回りになったが、「となり組(1組を10数件の家単位で構成)」の班長をずっと引き受け、母は、忙しい時間をぬって「市政だより(市の広報)」を一件づつ届けつつ、一人暮らしのお年寄りの話相手になったり、地方から出て来られたご家族の相談にのったり、とにかく面倒見がよい人だった。お見合いの橋渡しもよくしていた。
また母は、関わった方々に「幸せの種」をまく人でもあった。そしてその種に「慈しみの雨」を降らす。そんな母だった。100蒔いても、芽を出すのは、1割ぐらいだろうか、母が亡くなってからも私は、母の蒔いてくれた幸せの種の恩恵を十分に受けた。
(母が生前に親切にした人がまた、私に親切にして下さる、たとえ)
胃の手術をして病床にありながら、母の残した書き損じた便箋から、いろんな人に手紙を書き、物やお金を送ったりしていた事を知った。
裏の奥さんはよく見ていた。母は、書道教室をしていたが、「儲け関係なくボランティアでやってたようだ」と。まったくその通りだ。
亡くなった時、自分のお金はほとんど持っていなかった。(お金の管理はすべて父)年金をもらえるようになるのをとても楽しみにしていたが、ほとんどもらうこともなく死んでしまった。
母がたくさんの消しゴムを購入していたので「何に使うの?」と尋ねたら、「展覧会に出展料まで出して出品してもらったけど、参加賞も何もないねん。だから、子供たちに気の毒でね。出品した子に、参加賞として、消しゴムをみんなにあげようと思ってね」
そしてお稽古にきた子供たちに毎回たくさんの駄菓子を用意して帰りに、あげていた。頑張った子供には、ご褒美として特にたくさんあげていた。
お菓子を大量に買い込んむ姿を見てボランティアのようだと裏の奥さんは、言っていたようだ。
そして近所の学齢前の小さいこどもさんがいるお母さんにも「おばちゃんには、よく子供にお菓子もらってね」お菓子を購入した帰り道で出会うと、あげていたようだ。
たいへん母らしいエピソードだ。いただいた月謝はほとんど菓子購入代金に消えていたのだろう。
母が入院していた病院でもお稽古の生徒さんのお母様が看護師をされていた。
「ガンでもまったく痛みがなかったのは、お母さんのお人柄やね。お母さんご飯食べれずに亡くなったから、仏壇にたくさんご飯盛って供えてあげてね」と、言われ18年間一日も欠かすことなく毎日ご飯をたいてお供えしている。
毎月、命日には、お坊さんがお参りしてくれるが、母が亡くなった土曜日は自分でお経をあげている。
この二つが生前、母に何もできなかった自分に課した事だ。
ブログの初めに母の最後を書いたが、母の事をもう少し書こうと思う。
母は、「慈母」という言葉がピッタリの人だった。優しくて、聡明で、機知にとみ、面倒見がよくて懐が深い、たいへんおおらかな母だった。
父は、母が亡くなったあと「竹を割ったような、とてもあっさりした性格」と形容していた。
私が父をみることを運命と思うなら母は、この「はび家」を切り盛りするために嫁いで来たのではないかと思う。
うちの両親は地域のいろんな役を引き受け、父、祖父も長男であった為、人の出入りがとても多い家だった。
今は持ち回りになったが、「となり組(1組を10数件の家単位で構成)」の班長をずっと引き受け、母は、忙しい時間をぬって「市政だより(市の広報)」を一件づつ届けつつ、一人暮らしのお年寄りの話相手になったり、地方から出て来られたご家族の相談にのったり、とにかく面倒見がよい人だった。お見合いの橋渡しもよくしていた。
また母は、関わった方々に「幸せの種」をまく人でもあった。そしてその種に「慈しみの雨」を降らす。そんな母だった。100蒔いても、芽を出すのは、1割ぐらいだろうか、母が亡くなってからも私は、母の蒔いてくれた幸せの種の恩恵を十分に受けた。
(母が生前に親切にした人がまた、私に親切にして下さる、たとえ)
胃の手術をして病床にありながら、母の残した書き損じた便箋から、いろんな人に手紙を書き、物やお金を送ったりしていた事を知った。
裏の奥さんはよく見ていた。母は、書道教室をしていたが、「儲け関係なくボランティアでやってたようだ」と。まったくその通りだ。
亡くなった時、自分のお金はほとんど持っていなかった。(お金の管理はすべて父)年金をもらえるようになるのをとても楽しみにしていたが、ほとんどもらうこともなく死んでしまった。
母がたくさんの消しゴムを購入していたので「何に使うの?」と尋ねたら、「展覧会に出展料まで出して出品してもらったけど、参加賞も何もないねん。だから、子供たちに気の毒でね。出品した子に、参加賞として、消しゴムをみんなにあげようと思ってね」
そしてお稽古にきた子供たちに毎回たくさんの駄菓子を用意して帰りに、あげていた。頑張った子供には、ご褒美として特にたくさんあげていた。
お菓子を大量に買い込んむ姿を見てボランティアのようだと裏の奥さんは、言っていたようだ。
そして近所の学齢前の小さいこどもさんがいるお母さんにも「おばちゃんには、よく子供にお菓子もらってね」お菓子を購入した帰り道で出会うと、あげていたようだ。
たいへん母らしいエピソードだ。いただいた月謝はほとんど菓子購入代金に消えていたのだろう。
母が入院していた病院でもお稽古の生徒さんのお母様が看護師をされていた。
「ガンでもまったく痛みがなかったのは、お母さんのお人柄やね。お母さんご飯食べれずに亡くなったから、仏壇にたくさんご飯盛って供えてあげてね」と、言われ18年間一日も欠かすことなく毎日ご飯をたいてお供えしている。
毎月、命日には、お坊さんがお参りしてくれるが、母が亡くなった土曜日は自分でお経をあげている。
この二つが生前、母に何もできなかった自分に課した事だ。