福岡炭鉱 | 鶴嘴さんのブログ

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全国の旧鉱山や旧炭鉱の調査を行っております。

元々炭鉱が操業していた地区で ここまで様変わりした地区は あるのだろうかと感じさせるこの街中に福岡炭鉱という炭鉱があったようだ、

大正元年、
松江玖重氏が西新町炭鉱の名で経営に当たっていた。

大正3年、
福岡鉱業株式会社が買収し福岡炭鉱と改称した。

大正6年1月、
船成金として有名であった 山本唯三郎氏が買収、

大正10年5月、
鈴木商店系の帝国炭業株式会社が経営した


大正14年以降、
直営をやめ福岡炭鉱株式会社による経営に
なるが昭和金融恐慌で鈴木商店が破綻し、

昭和2年、
姪浜鉱業がこれを買収のうえ休止したひらめき電球

大正8年、
最盛期の出炭量285000t

大正6年、
第1坑 鉱夫数 男性829名 女性32名
第2坑 鉱夫数 男性594名 女性185名


さて現地を歩いてみよう、



第1坑 東坑 があったであろう付近、

操業していたのが古いというべきか…

この地区が閉山後 こんなにも栄え 現在マンションや住宅が建ち並ぶ、
いうまでもなく 痕跡等 皆無に等しい…


そして、

第1坑西坑 付近 こちらもこの通り 全く言われなければ ここで採炭していた事もわからない…

少し現実味が必要か、

昭和14年の航空写真、

余談だが こんな年にアメリカに航空写真を撮られていたとは 少し複雑な気持ちになる…

東、西坑のだいたいの位置は おわかりいただけたであろう、

そして 石炭運搬の専用線があり 藤崎で北筑軌道本線につなぎ糸島の今宿に運んでいたとあるが2つの資料には 専用道路、専用引き込み線の記載に分かれている汗

どちらにせよ 久しぶりに早良区までやってきて 珍しく軌道に興味が湧いた、



曙地区に差し掛かった この変則的な鋭角で
斜めに通る通りが気になる、

舗装がしてあるものの この通りは 当時の
専用道路? 専用線の軌道ではないだろうか



いつもの必殺技の聞き込みも大正時代のものとなれば 話は 別、
しかし 駄目元で聞き込みを実行したひらめき電球

この地区で1番古くから建っている住宅に住む89歳になる お婆さんに出会えた、

お婆さんも昭和初期からの記憶しかないと
話す…


しかし、

この左側の少し高くなっている敷地は、
元々ボタ山であったと話してくれたひらめき電球

「皆で登ったの覚えとる」

この位置にボタ山があったようだ、
そして 自分に聞いてもわからんから この地区で 100歳をこえる方を紹介してやろうと言われたひらめき電球

「まだ 頭も足腰もそっちの方がしっかりしとるけん」

とブラックジョークで笑わせてくれたひらめき電球


今回は その方の予定が合わず会えなかったが後日 御話しを聞いてみたいひらめき電球


続いて 第2坑跡地に向かう、

大正4年10月9日、
第2坑に着手する、



第2坑跡地付近、

ここも 市営の団地と企業資材置き場となっているひらめき電球



昭和14年 航空写真

こちら側にも専用線の軌道があったという事で少し町を歩いてみたひらめき電球




ここに 昔は 橋があったはずだが川の中には 橋脚などの痕跡は 見られなかったひらめき電球


ここから 第3坑へと軌道が伸びていたようだ、

大正6、7年頃
第3坑 開坑、

現在の小戸公園付近がそうであったのだろうひらめき電球

昭和の航空写真には ここから桟橋が伸び船舶も確認できるが資料によれば 第1坑の専用線 北筑軌道に合流させ糸島の今宿に運び
ここから 船で仕送ることとした…

昭和に入り変更されたのか?

しかしながら 石炭が流れ着く場所となり、
今宿の発展は 大したものであったと記載がある、料理屋、飲食店、芸妓があり置屋もあったようだひらめき電球

ここ第3坑については 早良炭鉱 記事にて後日更新するひらめき電球



最後に鷲尾愛宕神社がある高台から豊浜を見下ろす 旧姪浜炭鉱が操業していた地区である、

眼下の街を見る限り 誰がここに炭鉱があったと思えるか?

街の中心となり空想や創造でも今の風景を
見れば考えつかない、





(参考資料 福岡県史、福岡市史)