天道 炭坑 | 鶴嘴さんのブログ

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全国の旧鉱山や旧炭鉱の調査を行っております。

飯塚市 天道 楽市地区 炭鉱調査に向かいます。

現在 大将陣公園となっている公園内から 山頂付近から南側に沿って 天道炭鉱が採炭を行っていた。


今回は、
その天道炭鉱跡を歩いてみよう公園には 頂上までの車道がある。


緑多い車道を上がると、



最北側に慰霊碑が立っていた。


昔は ここまでの道しかなかったようだが、

1番の場所が慰霊碑となる、

南側への道は 新設したのだろうか?

南側へと足を進める、

番号をふり忘れ丸印の建屋が確認できる位置には このような水槽が型枠の目をみると 最近のものではないだろう。

事務所や他の施設としては 少し離れ過ぎているのではないかと感じる。


先に進む、
右手の茂みに建造物らしき影が、

3番位置、

緑に覆われ見にくいのだが建屋外壁が3方向しか無い建物跡を発見、

外壁は 後から解体したのではない事が断面からも見て取れるであろう。

そして 中央部に台座が残っていた。


勢いよく藪に入るのだが……

足を踏入れる事2歩、
足元に マムシがとぐろを巻いている事に気付いた…

恐る恐る 後退りする。


もっと 詳細に調べたかったのだが…
寒い季節となってから再訪しようと思う…



台座付近からも見えていた 大きな建造物、



これは 高低差を利用した給水タンクであろうか?

この遺構は 昭和30年代の航空写真でも確認できる。


そこから さらに南側へ、

最初は ゴミ捨て場かとおもいきや 年代別の航空写真には はっきりと写っている。

仕切りがあるところを見ると 沈殿槽かなにかだったのか?


そして 高台から6番とボタ山位置を眺める、

6番位置は 4つに区切られたポケットや円形の水槽、そして 数々の遺構が確認できる事から選炭場だったのではと推測する、

その位置は 現在 公園となり遊具が建ち並ぶ。


ボタ山は ご覧の通り平に整地され そこがボタ山だったと誰が思えるでしょうか?



続いて 最南側へ行く前に 2番 天道駅方向に向かう事にしよう、

駅の裏側、
山の斜面に入るのだが途中 階段があり その先に道は 無い…

近所のおじさんが 階段を登り、その上の斜面に隧道があると言う、

斜面に痕跡が現れる、


更に 斜面を登れば、

運炭用隧道のようだ。


内部は 塞がれている。


航空写真では 線路に伸びる影と広大な敷地があり ここが積み出し 積み込み場であったのではと思う。

整地された頂上付近ではなかった事が解体を免れた理由でないかと感じた。



最後に南側 7番位置と火薬庫を見に行く、
火薬庫は 現在道路が割って入り その残存は 確認出来なかった、

7番位置も現在は 見る影もなく痕跡は 全く無い。


高台から遠くの 平恒地区を眺める、

悠々とした忠隈炭鉱のボタ山が見えた、
嘗て この付近にも数多くのボタ山があったのだろう。






詳細、

昭和10年11月18日、
日本炭鉱株式会社の鉱区となり本炭鉱は 本格的作業に着手し出炭を開始した。

昭和11年7月6日、
に野上鉱業株式会社に譲渡し その後、昭和12年に赤司 初太郎氏が譲り受けた。

同年7月4日、
東邦炭鉱株式会社の経営に移った。

昭和14年3月30日、
以前の経営者である野上鉱業株式会社に譲り渡し、

昭和16年3月1日、
その後 再び東邦炭鉱株式会社が譲り受けて経営した。

昭和20年5月6日、
明治鉱業株式会社が鉱区の一部を譲り受け、

昭和28年12月30日、
まで経営していた。

昭和29年3月25日、
大陣鉱業所が明治鉱業株式会社から鉱区を譲り受け昭和39年の廃山になるまで操業していた。




(桂川町誌から)