ブラームスとしては、作品4につづく小品です。ブラームスは、作品5でピアノ独奏用のソナタから離れ、ピアノ独奏曲では変奏曲と小品の世界に向かいました。
グリーグと作曲に対する考え方が似ていますね。
4曲収録されていて、これらの4曲はバラードと題されています。
しかし「バラード」として明確な叙事的、物語的な性格をもっているのは、第1番のみだと言われています。他は、純音楽的なアプローチが使われ、かなり力感的な曲となっています。3部形式で構成され、曲の規模はショパンのものと比べると小規模、ブラームスの当時の作曲傾向とも重なります。
これらの4曲は、それぞれ独立して演奏されることがありますが、調性的な関連があることから、まとめて演奏されることも多いです。
今回演奏の分析をするのは第1番。
バラードとしての性格が最も強く、4曲中、最も演奏される機会が多いです。劇的な迫力、緊張感をもった曲だと思います。
この曲はドイツロマン派の詩人ヘルダーの「諸民族の声」のなかの「スコットランドのバラード〈エドワード〉」によった作品で、「エドワード・バラード」とも呼ばれます。
この詩は、父を殺したことを企てるも息子に責任を押し付け静かに問い詰める母と、気持ちを荒立て、また罪の意識にさいなまれる息子エドワードの対話がメインになっています。
母親に、そそのかされて父親殺しをしてしまう子供「エドヴァルト=エドワード」と、計算づくで父親殺しをさせた母親との世にも恐ろしい物語ですが、母親は子供エドヴァルトを操っていたにも拘らず、物語では、子供を一方的に問い詰めていきます。
その時の凄さをブラームスはピアノ曲で、ベートーヴェンが使った「運命の動機」を多用することによって、この物語に潜む、どす黒い深層を暴いているように感じています。
この詩に対しては、歌曲作曲家のレーヴェが歌曲(作品1の1)を書いており、
ブラームスも、1877年にアルトとテノールのための2重唱曲(作品75の1)を作曲しています。
さて、この物語に完全に同意するには私自身の経験は全くの役立たずなわけですが、母親から追い立てられ追い詰められる息子の黒い深層の心持ちは私の経験でも補う事ができると思っています。
それがイコール死とはなりませんが、
死に向き合った友人の話や、そこから膨らませる私の「死」への向き合い方についてをこの曲に乗せることでバラードらしさを出せると考えています。
人は遅かれ早かれ人の死に直面する。
それが芸術の糧にできるかは人次第。
想いを込めて。




