ブラームス バラード1番(1854)


ブラームスとしては、作品4につづく小品です。ブラームスは、作品5でピアノ独奏用のソナタから離れ、ピアノ独奏曲では変奏曲と小品の世界に向かいました。



グリーグと作曲に対する考え方が似ていますね。



4曲収録されていて、これらの4曲はバラードと題されています。

しかし「バラード」として明確な叙事的、物語的な性格をもっているのは、第1番のみだと言われています。他は、純音楽的なアプローチが使われ、かなり力感的な曲となっています。3部形式で構成され、曲の規模はショパンのものと比べると小規模、ブラームスの当時の作曲傾向とも重なります。

これらの4曲は、それぞれ独立して演奏されることがありますが、調性的な関連があることから、まとめて演奏されることも多いです。



今回演奏の分析をするのは第1番。





バラードとしての性格が最も強く、4曲中、最も演奏される機会が多いです。劇的な迫力、緊張感をもった曲だと思います。


この曲はドイツロマン派の詩人ヘルダーの「諸民族の声」のなかの「スコットランドのバラード〈エドワード〉」によった作品で、「エドワード・バラード」とも呼ばれます。


この詩は、父を殺したことを企てるも息子に責任を押し付け静かに問い詰める母と、気持ちを荒立て、また罪の意識にさいなまれる息子エドワードの対話がメインになっています。


母親に、そそのかされて父親殺しをしてしまう子供「エドヴァルト=エドワード」と、計算づくで父親殺しをさせた母親との世にも恐ろしい物語ですが、母親は子供エドヴァルトを操っていたにも拘らず、物語では、子供を一方的に問い詰めていきます。


その時の凄さをブラームスはピアノ曲で、ベートーヴェンが使った「運命の動機」を多用することによって、この物語に潜む、どす黒い深層を暴いているように感じています。


この詩に対しては、歌曲作曲家のレーヴェが歌曲(作品1の1)を書いており、

ブラームスも、1877年にアルトとテノールのための2重唱曲(作品75の1)を作曲しています。



さて、この物語に完全に同意するには私自身の経験は全くの役立たずなわけですが、母親から追い立てられ追い詰められる息子の黒い深層の心持ちは私の経験でも補う事ができると思っています。



それがイコール死とはなりませんが、

死に向き合った友人の話や、そこから膨らませる私の「死」への向き合い方についてをこの曲に乗せることでバラードらしさを出せると考えています。





人は遅かれ早かれ人の死に直面する。 

それが芸術の糧にできるかは人次第。






想いを込めて。







今の歌声は/『セヴィリヤの理髪師』より

ジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)
イタリアの作曲家。作曲家だけでなく音楽監督も務めるも、44歳の時に音楽界を引退。
美食家とも言われていますが、それは何故か。
63歳の時に著名人を集めるサロンや高級レストランを経営したからです。



『セヴィリヤの理髪師』(1816年初演)
フランスの劇作家ボーマルシェの書いた風刺的な戯曲(フランス語原題:Le barbier de Séville ou la précaution inutile 「セビリアの理髪師あるいは無用の用心」)を題材に作曲。



実はロッシーニによりも先にジョヴァンニ・パイジエッロが同戯曲により同名のオペラを作曲している(1782年初演)のですが、ロッシーニ作品の成功によって忘れられたそうです。


ボーマルシェの戯曲は1775年に書かれ
喜劇『フィガロの結婚』(第2部 1786年モーツァルトがオペラ化、同年初演)
正劇『罪ある母英語版』(第3部 1792年
とともに3部作と言われています。

ロッシーニのオペラの中で最も速い2週間で作曲され、現在でも頻繁に上演されています
現在もロッシーニ随一の人気作品ではありますが、特に作曲者の再評価が始まる1970年前後までは、他の作品がほとんど上演されることがなかったため、唯一の代表作扱いをされていました。



『セビリアの理髪師』第1幕第2場で、リンドーロ(伯爵)の求愛を受け入れたヒロインのロジーナが歌う恋のアリアです。


歌詞

今の歌声は
心の中に響きわたり
私の心は
リンドーロに射抜かれた

そうよ リンドーロはわたしのもの
必ず手に入れてみせる
バルトロが許さないけど
知恵を絞ってうまくやってみせる
そうよ リンドーロはわたしのもの
必ず手に入れてみせる

私は素直で礼儀正しい
従順で優しい 愛情も深い
言われるがままに尽くしてみせる

けどもし弱みに付け込まれたら
私は毒蛇になって 敵が降参するまで
たくさんの罠で懲らしめてやるわ




11/4




完読!

少し本読むの早くなりました。



さておき。




新しい所を読む毎に
新しい発見ができる本でした。




特に1番最後のリーダー論の件と
脱近代へのヒントは
特に読んだ日の現実と重なって
刺さりました。
ぐさっと。




1日の平均睡眠時間の真似はできないけれど、
1日1日を無駄にしない生き方はなんだろうと
改めて考えて、
1日の過ごし方を真似してみましたが
(というか偶然そうなっただけ)
眠いものは眠い。
頭回したくても体力が足りないなど
色々と未熟でした。



神山健治さんの作品を少し取り上げた文章に感動したり、
非中央集権について
Japanという国家色について
これからのデジタルについて
考えるとワクワクしつつ、
こんな日本になるのかな、
物語で創造されてきたイメージが実現していきつつあることに一抹の不安を覚えたりしました。






もう一度『東のエデン』を読みたくなりました 。




デジタルネイチャー完読までもう少し。



今年は落合陽一さんに出会った年になりそうです。