手作りしめ縄。
何とか形になって良かった。。



スピノザ『エチカ』
NHKの番組「100分で名著」を毎回録画して
見ていると、音楽や芸術の新しい見え方ができて
すごく楽しい時間になります。


今回「画期的や!!」と思ったのは
「エチカ」vs「曽根崎心中」
です。



そもそも、
前にも少しブログで掲載しましたが、
『曽根崎心中』が情愛劇で、その美しさが現代にも共通し、普遍的な価値があるというのなら、それは間違いないと思っています。


実際に以前読んだ角田光代さんの『曽根崎心中』では社会風刺よりも、残酷な世界で必死に生に縋り付こうとする2人が全面に映し出され、取り付く島もないほどでした。



その視点から目を離せないからこそ、
「なにも心中しなくても」という心がどこかにあり、「生きる」という選択肢を模索してしまっていました。


ですが、曽根崎心中にはもう少し何か違う視点が隠れているのではないか、
心中を理解するに足る視点からあるのではないか、
だから社会を巻き込む大ヒットになったし、
芸術に少なからず含まれる社会風刺がそこにあるのではないか、
でもそれが分からなくて
とずっともやもやしてきました。



実際、オペラ『フィガロの結婚』やそれより前のオペレッタも社会風刺を含む表現が人気だったりしたので、もう少し『曽根崎心中』もあって欲しいという願望もありつつ。


特に研究論文を読んだりはしていないので
これが本当に合っているかは分かりませんが、
『こうだったら最高に面白い!』という仮説にたどり着きました。


またこんなこと当たり前に感づいておられる方もいらっしゃるでしょうが、あえてここに私は初めてだったと残しておきます。



『エチカ』では自殺について
「自殺する人々は無力な精神の持ち主で、自己の本性と矛盾する外部の諸原因にまったく征服されるものである。」
と述べます。


「その人が持っている力と比べたとき、圧倒されてしまう現象つまり、自殺を引き起こす外部の要因が必ずあると知りなさい」と言うことなのですが、
これを『曽根崎心中』に当てはめると、、、


というのが全容です。



つまり、
徳兵衛が自殺しなければならなくなった原因である、
叔父に勘当されたり継母とのお金のやり取り、大切な友人に裏切られたというこの事を、
物語の中で明確に書くことで、
今の社会はこんな姿であると知りなさいと
観客に客観的に見せている。




駆け引きの世界に生きるお初も豊後の客からの身請け話に絶望し、
このままだとお互いに寄り添うことはできないと踏んで「生きていても同じこと」と決意を新たにする場面もありますが、これが自殺に足る主な原因であり、「不本意な生を拒絶する、女の心意気」を描くこととは別の視点があります。



心中は死を自ら選んだ様に見えているが実は、
社会によって死ぬことを強制されている。
自ら死を選んだと周りが考えてしまっているし物語もそう展開していますが、
実は2人を取り巻く社会の力によって強制され、それが行われたという視点を忘れてはならない、という事です。



さらにスピノザは、
「自分以外の本性・力を原因とし、自分以外の本性・力を表現している」=「受動」としています。



究極の「受動」=自殺だとすると、
『曽根崎心中』の2人の心中は、2人を取り巻く社会が原因で、心中はその社会の力に2人が耐えられなくなった限界点とその社会の力を表現していることになります。



と言うことは、
この物語の正体の一方の顔は、2人の「能動」的に生きようとする力よりも強大な、この物語を取り巻く社会の力の大きさを表現していることになります。



遊郭の遊女という立場、想いを寄せる人じゃない人からの身請け話、叔父からの勘当、継母とのお金のやり取り、大事な友人からの裏切り。。。



2人を取り巻く本性を強制しようとする社会の力。



それは外部の人間が構築する社会の力は人を死に追いやるほど人間に影響力が強いのだという社会風刺でもあります。



これもいつの時代にも当てはまりますね。



心中が光れば光るほど、社会の力も大きい。



心中は2人の情愛、生死、「能動」的に生きようとする2人の意志の強さとは別に、
2人を取り巻く抗えない社会の力の大きさを表現し、
それぞれが火花を散らしているからこそ
この物語は素晴らしいと言える、、
とスピノザを通して感じました。





哲学は新しい視点をくれる。
もう既に知っている事でも明確な言葉で説明してくれるからこそ、学んでおきたいと改めて思いました。



あまりしっかり認識できなかったというより、
物語を読んでいくと、お初徳兵衛の生に対する強い気持ちの方にどうも引き摺られて、
今までもやもやしていたのですが、
ようやくこの物語の全体像が見えた気がしています。


自殺という考え方、
自殺に追い込まれている人の心境、
自分の意志は実は社会によって誘導されているという事実と、
社会の力に完全に負けてしまうという状況と、
言葉にしてはっきり分けて考えることによって
『曽根崎心中』をまた別の視点で見ることができました。







街はいよいよクリスマス色。
どこもかしこもキラキラで、クリスマス本来の目的であるイエス・キリストの誕生日を祝う様なムードが漂っている。



キリスト教信者と言わないまでも恋人と過ごしたり友人と過ごしたり仕事と過ごしたりと、普通の日に彩りを添えるそんな要素になっている事はまず間違いない。



そう。
本来の目的はイエス・キリストの誕生日。




それ以上でもそれ以下でもない。
よね。
 

うん。


私は流されない。


と思いたい。




長野りんごを沢山頂いたので、サラダに使おうと思いひたすら白菜切ってたら、
なんと自分の指まで切ってしまって、しかもそれが意外と深い所を抉ったようで、
人生初失敗。






白身魚に白ワインが良く合うと言うけれど、
まとめ買いした時には買わなかったし、パスタに使う予定だったことと、白ワイン単体で飲むの目的だったので、果実の味わいが強く辛さ控えめなワインを選びました。




シュトレンは何かと毎年買う様にしていて、
今年は人から頂いたので、自分で買わなくて済んだかな??




ケーキの好き嫌いがとにかく多いので、
自分では絶対に買うことはないのですが、
クリスマスの雰囲気に影響されて今年は1個買おうかなとか考えてしまいます。





シュトレンは好き嫌いとかは無くどこのお店の物でも甘すぎず美味しいので好き。




頂き物のシュトレンと共に。
少し早いクリスマス。



はっ。




流された。




しかも結構早い段階で。



次は年賀状です。


大和楽《あやめ》


そもそも「大和楽」とは何だっけ?
という薄れた知識の中稽古しています。



大正から昭和にかけて、「今までになかった全く新しい日本音楽」を創るために各界より超一流の名士を集めて新しい音楽を創作したものです。


大和楽は、大倉喜七郎さんによって「日本の伝統音楽の構成に現代的な発声の衣を纏わせて人々に愛唱される曲の形式を創出しようと試みる楽派」と定義され、1933年(昭和8年)に創設されました。



日本音楽の歴史の中では新しいほう。
大学入試の時に勉強したのが懐かしい。。



音楽的な特徴としては、従来からある三味線音楽や箏楽に、西洋音楽の発声法やハーモニー和声)・輪唱ハミングなどの演奏法を採り入れ、従来の邦楽と違った新しく自由な形式を持ちます。


他の邦楽と違い、女性演奏家を中心に活動が行われています。特に唄方は当初男性もいたのですが、現在では全て女性が担当しているそうです。三味線方は男性奏者も活躍しています。



《あやめ》ですが、
菖蒲の精が17歳くらいの人間の女の子になり、愛しい男性を待つ物語になっています。
箏の華やかな彩色鮮やかな音色と女性の柔らかな雰囲気がミックスされ、幻想的な雰囲気の中場面情緒や愛しい人を今かと待つ切なさを表現している、そんな曲です。

【歌詞】
五月雨に匂うあやめやかきつばた 
かけ渡したる八つ橋に 
傘がくるくる蛇の目傘 
降るよ五月雨音も静かに水嵩増して恋のせき
積もる愁いの池の面 
思いそめたるとりとりの 
薄紫に濃紫 渡る影さえおづおづと 
水にかげろう八つ橋の 八つの迷いの恋の辻
闇路ほのかに降る雨に 咲いて色増すあやめ草 
さってもな君がみ庭に
咲けばめでたや池の汀に青柳の 
枝もなよなよ風誘う 恥ずかしながら袖と袖
 ぬれてさしましょも合い傘 
胸の思いも晴れて逢う日の花あやめ 
色も匂いも紫に 池の水面に雲は流れて 
ながれながれて波のまにまに風かおる


発表会が終わってからのお稽古はまだ2度ほどですが、新しい振りを教えて頂き、少し踊り慣れてきた頃に、底なし沼に急に嵌まる感覚があります。

しかも今回は、現実の女の子と言う訳ではなく、
精霊のつもりというファンタジーな世界。

17歳という成人に近い年頃の女の子の仕草の色めかしいこと。

曲が柔らかいお陰で、曲を聴いているだけなのに
自分の身体の動かし方が柔らかくなる様に作り替えられる感覚。



忙しいです。


ピアノでもよくあります。
曲の雰囲気と身体の動きが揃わないと
本当に曲に合う音にはならない。



今は踊りの型をなぞるのに必死なので、
これが本当に曲の雰囲気を表わせているのか
急に不安になるタイミングが出てきて
ツボにハマり、今までより夢中になりそうです。