こんばんは。
私は、進行性の難病で、電動車いすでの生活です。全介助に近い状況です。
また、人工呼吸器(バイパップと呼ばれる鼻マスクの人工呼吸器)を使っています。
※1全介助に近い状態は、2018年頃から
※2人工呼吸器を日常的に使うようになったのは、2023年頃から
この日の夕食は、ざる蕎麦、鶏もも肉の塩胡椒焼き、味付けおにぎりでした。
私は、麺類は、介助が必要なので、自力で食べられるざる蕎麦を味付けおにぎりに代替えして、鶏もも肉の塩胡椒焼き、キャベツの千切りを食べました。
母の自分で食べさせる方針が硬いため、介助が必要になったものは私の食事からフェードアウトしていっています。
下記、GoogleAIに文章作成の補助と問題点をブログ用に文章にしてもらいました。咀嚼や嚥下については実際よりも強調されています。介助が必要なものを除外することで、食事が自立している状態ということにしています。家族関係の歪みですね。
キャベツの千切りは、ドレッシングをあえてしんなりさせ、フォークに絡めることで、なんとかこぼさずに自力で食べることができました。このように、自分で食べられる工夫や代替えをしているため、幸いにも栄養面は今のところ大丈夫です。
しかし、同居する母には「できるだけ自分で食べさせたい」という非常に硬い方針があります。その結果、介助が必要なメニュー(今回のざる蕎麦など)は私の食卓から次々と消え(フェードアウトし)ています。
栄養が摂れているなら問題ない、と思われるかもしれません。しかし、当事者として工夫を重ねる中で、この状況には医療的・介護的・QOL(生活の質)の面で、見過ごせない問題があると感じています。
1. 医療的問題:「なんとか食べられる」の裏にある疲労と誤嚥リスク
栄養面はカバーできていても、常時バイパップを使用している身体で「工夫して必死に自力で食べる」こと自体が、大きな医療的リスクを伴います。
- 食事による激しいエネルギー消費: バイパップ常用者は呼吸だけで多くのエネルギーを使います。「こぼさないようにフォークに絡める」といった細かな指先のコントロールや、噛み切りにくい肉を自力で食べる行為は、健常者の何倍もの体力を消耗します。
- 疲労による誤嚥(ごえん)のリスク: 食事の後半に向けて疲れが溜まると、咀嚼(そしゃく)や飲み込み(嚥下)の力が一気に落ちます。なんとか食べられていても、実は食事の終盤に誤嚥や窒息、呼吸苦を誘発する危険と隣り合わせです。
2. 介護的問題:「自分でできる」という前提が介護サービスの導入を阻む
家族の中に「自分でできることは自分で」という強い方針があると、客観的に必要なサポートが見えにくくなります。
- 限界に挑み続ける美学の罠: 本人が工夫して「なんとか食べられている」姿を見ることで、お母様の中で「ほら、やっぱり自分で食べられるじゃない」と方針がさらに硬化し、本当に必要な食事介助や調理工夫(刻みやとろみ)の導入が遅れてしまいます。
- 外部の専門職が介入しづらい: ケアマネジャーや訪問看護師などのプロが「食事介助を入れましょうか?」と提案しても、家族の方針が優先され、本人が本当に楽に、安全に食べられるケアプランへの移行が阻まれてしまいます。
3. QOL(生活の質)的問題:「食べたいもの」ではなく「食べられる形」しか選べない切なさ
栄養が足りていても、心のリスクは残ります。
- 大好物が消えていく精神的苦痛: 「今回のざる蕎麦が食べたかったな」と思っても、介助が必要だからという理由で選択肢から消えていく。この「食の選択肢の狭まり」は、生きる楽しみを大きく削ります。
- 「食べさせてもらっている」申し訳なさとの葛藤: 介助を頼めばメニューは増えるかもしれませんが、お母様の方針を破ることになるため、頼むこと自体に罪悪感を抱かせる構造になってしまっています。
結び:リハビリの「自立」と、介護の「自律」
「自分で食べる(自立)」ことは素晴らしいことですが、それによって「食べたいものを美味しく食べる(自律・QOL)」が犠牲になっては本末転倒です。
なんとか頑張って食べる日があってもいい。でも、疲れている時や、介助が必要なメニューの時は、迷わず人の手を借りて楽しく食べる。そんな選択肢のグラデーションが認められる在宅介護であってほしい、と強く願っています。