グルコサミン博士のブログ -7ページ目

グルコサミン博士のブログ

グルコサミンのことならなんでもお答えします♪

今朝(2025年8月9日)放送された『土曜はナニする!?』では、「日帰りぷらっとりっぷ」で勝村政信さんと風間俊介さんが、夏の軽井沢を涼を求めて巡る旅が特集されました。

本ブログでは涼を求めて、絶景の滝めぐりと食で味わう軽井沢らしさ二回に分けて紹介します。

 
まずは涼を求めて、絶景の滝めぐり
1.白糸の滝

軽井沢の「白糸の滝」は、その名の通り無数の白い糸が垂れるように水が流れ落ちる、幻想的な滝で知られています。高さはおよそ3メートルと控えめながら、幅は約70メートルにも及び、まるで大きな水のカーテンが広がっているかのよう。四季折々の自然と相まって、その美しさは訪れる人を魅了します。

この滝の特徴は、川の水ではなく岩肌から直接湧き出す地下水がそのまま流れ落ちている点にあります。透明度の高い水が静かに、しかし確かな勢いで落ちていく様子は、眺めているだけで心が澄みわたるようですね。

夏は涼やかな空気に包まれ、秋は紅葉とのコントラストが見事。冬には周囲の木々や水面に氷の装飾が加わり、また違った表情を見せてくれます。軽井沢を訪れたら外せない名所であり、自然の優美さを肌で感じられるスポットです。

  • 住所:長野県北佐久郡軽井沢町長倉

  • 電話:0267-42-5538

2.竜返しの滝

「竜返しの滝」は、別名「すずが滝」とも呼ばれ、木々の深い緑の中に白い水流が映える景観が魅力です。まるで竜が勢いよく天へ舞い戻るかのような迫力があり、訪れる人を惹きつけます。水しぶきが風に乗って漂い、心地よい涼しさをもたらしてくれる場所ですね。

この滝は、池の平湿原を囲む外輪山の一角に位置しており、標高はおよそ2000メートルを少し超える高さ。滝周辺を散策しながら自然を満喫できるだけでなく、外側、特に南方向への眺望は圧巻です。澄み切った空気の中、遠くの山並みや谷を一望できるのは、ここならではの特権でしょう。

四季折々の表情も見逃せません。春から夏は新緑と清流が爽やかで、秋には紅葉が滝の背景を鮮やかに彩ります。冬には雪景色と滝の白さが溶け合い、静けさの中に力強さを感じることができます。自然と絶景の両方を楽しめるスポットです。

  • 住所:長野県北佐久郡軽井沢町長倉小瀬

  • 電話:0267-42-5538

3.浅間大滝

北軽井沢エリアで最大級の規模を誇る「浅間大滝」は、高原の爽やかな雰囲気にぴったりの美しい滝です。周囲を静かな森林に囲まれ、豊富に流れ落ちる水の音がまるで自然の調べのように響き渡ります。この水音が静寂な林の中にゆっくりと吸い込まれていく様子は、訪れる人の心を穏やかにしてくれる魅力ですね。

滝の勢いある流れは見た目にも涼しさを感じさせ、夏の避暑地としても大変人気があります。散策路も整備されており、気軽に自然の息吹を感じながら歩けるのも嬉しいポイントです。季節ごとに変わる景色と相まって、何度訪れても新鮮な感動を味わえます。

また、浅間大滝周辺は高原リゾートならではの澄んだ空気が満ちていて、日常の喧騒から離れて心身をリフレッシュしたい方におすすめのスポット。自然の中で耳を澄ませば、水のささやきとともに、癒しの時間がゆっくりと流れていきます。

  • 住所:群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢

  • 電話:0267-42-5538

ちょうどお盆時期ですが、来られたら、ぜひ訪れてみてください。

私のとても元気だった愛犬アラレが埼玉のとある専門病院の検査後、間もなく小さな命が亡くなってしまいました。

獣医療の現場で起きたあまりに突然な死。納得のいかない説明、矛盾のある記録、不透明な判断。


私は飼い主として、命の重さを伝えたかった。問いただしたかった。
しかし、裁判という道を選んでから、私の前には「見えない壁」が立ちはだかりました。

 

一つ目の壁は、「情報の壁」でした。


 

医療記録は専門用語の連続。診療の是非を問うには、医療知識、法的知識、そして証拠が必要でした。
つまり、一般的医学の素人の飼い主が挑むには、あまりに高すぎるハードルがそこにあったのです。

二つ目の壁は、「裁判所の論理」でした。


 

私は裁判を通じて責任の所在を明らかにしたかった。
しかし、実際の裁判は、事実そのものではなく、「裁判官の心証」で決まる世界。
医療過誤の証明責任は原告側にあり、しかも動物医療における前例やガイドラインは極めて乏しい。
一部の明らかな過失(手術中の異物混入、明白な誤診など)以外は、認められにくい現実があります。

三つ目の壁は、「社会の沈黙」でした。


 

ペットの医療被害は人間の医療事故と違い、注目されにくい。
動物のことだから、そんなことで裁判までするの?という無理解も感じました。
さらに、和解に応じれば、事実を話すことさえ禁じられる「口外禁止条項」が課されるのが通例です。

弱者が声を上げようとするとき、それを封じる仕組みが社会の至るところにあります。
それでも言わなければ、また同じことが繰り返される
そう思って進んだ裁判。しかし、勝訴は叶いませんでした。

これぐらいの過失があっても裁かれない!だからここままで問題ないという非常に怖い獣医療の現状。
 

裁判の過程で出会った言葉があります。

「裁判官は真実を知るために判決を書くのではなく、妥当と思う形に合わせて事実を再構築する」

この言葉を聞いて、私は愕然としました。そして、ようやく理解しました。
あの場に「真実」を求めてはいけなかったのだと。

それでも、弱者が声を上げられない社会は、やがて誰も安全に生きられなくなります。

私は、アラレのことを、忘れません。
この経験を通して見たもの、感じたこと、学んだことを、これからも伝えていきたいと思っています。

どうか、同じように苦しんでいる誰かの心に届きますように。
 

私は、弁護士は「正義の味方」、裁判所は「科学的に公正な判断を下す場所」だと信じていました。少なくとも、そうであってほしいと願っていました。しかし、アラレの死をきっかけに裁判を起こす決意をし、その現実に真正面から向き合ったとき、その幻想は音を立てて崩れ落ちたのです。

 

まず最初に突き当たった壁は弁護士探しでした。飼い主として動物病院の責任を問いたくても、動物病院の顧問弁護士ばかりが目に入ってくる。つまり、多くの弁護士が病院側の味方なのです。そもそも彼らにとって、安定的に毎月顧問料が入ってくる仕事は魅力的でしょう。対して、個人の飼い主からの依頼は、仮に勝訴しても経済的なリターンは小さく、労力に見合わない。そうか!と私は思いました。
弁護士は、正義の味方というより、金銭の味方なのかもしれない、と。

 

裁判所もまた、私が思い描いていたような場ではありませんでした。

科学的根拠に基づいて丁寧に事実が解き明かされ、社会的に弱い立場にある者を守ってくれる。そんな期待は、無残にも裏切られました。
 

裁判官たちが重視しているのは、自分の評価に直結する処理件数。だから、どれほど納得いかなくても、後遺症のない和解を強く、時に一択のように押しつけてくるのです。
 

私は被害者であり、声を上げるためにここに来たのに、司法の場では、早く終わらせることが何よりも優先される。そんな裁判所の実態を知ったとき、私は一市民としての無力感に打ちのめされました。
これは本当に民主国家なのか?とすら、考えてしまったのです。

 

知人から、「こんな立派な資料を作れるなら、司法試験を受けてみたら」と冗談交じりに言われたこともあります。でも私は、司法の世界にはまったく魅力を感じません。自分の良心に反するような仕事は、たとえ能力があってもやりたくないのです。

 

私は生物学研究者として、正確なデータをもとに、科学を通して社会の役に立つことに誇りを持っています。だからこそ、科学的でもなければ、人を守る姿勢も見えなかった裁判所の現実には、心の底から失望しました。

 

そして何より、アラレに対する申し訳なさは、今も、これからも、ずっと私の心に重くのしかかっています。

愛犬や愛猫が体調を崩したとき、私たち飼い主は、ほぼ無条件で動物病院を頼ります。症状を伝え、診断を聞き、治療の提案を受け、「先生の言うとおりにお願いします」と頭を下げる。それが、当たり前の光景だと思っていました。

 

でも、アラレの死をきっかけに私は気づきました。
私たち飼い主と獣医師のあいだには、大きな「情報の非対称性」があるということ。

人間の医療では、インフォームド・コンセント(十分な説明と合意)が強く求められます。けれど動物医療の現場では、何が標準治療なのか、どういうガイドラインに基づいているのか、あるいは代替案はあるのか、そうした情報がほとんど共有されません。

 

たとえば、ある検査や処置が必要と言われたとき、それが医学的にどれほど妥当か、比較する指標を私たちは持っていません。飼い主にとっての選択は、事実上従うか、治療を断念するかという二択になりがちです。

私は、愛犬との別れを経て初めて、獣医療の専門論文を読み、複数の獣医師に意見を聞き、はじめてその「差」に気づきました。


命を預ける以上、病院選びはもっと慎重であるべきで、選ぶための判断材料もまた、飼い主側に与えられるべきだと思ったのです。

けれど現実には、病院の評判やクチコミは表層的で、専門性の差異は見えません。医師との相性や丁寧さに頼らざるを得ないのが、私たちの現実です。
これは、命を守るにはあまりに脆弱な前提です。

 

私は強く願います。
「信頼できる獣医師に出会う」ことが、運まかせではなくなる日がくるように。
そのためには、動物医療の透明性がもっと必要です。
飼い主が選び、考え、問うことができる情報が、社会に広がっていくことを。

小さな命を守るには、正しい知識と、対話できる関係性が不可欠なのです。

裁判を通して私が見えた制度の限界と、癒えぬ心の痛み。

 

裁判という制度の中では、医療(獣医療)を良くしたい、二度と同じ過ちを繰り返してほしくないという想いは、「感情」として処理される。
 

しかし、私は感情で訴えたのではない。根拠に基づき、証拠に支えられた訴えだった。

それでも、制度の中では素人である私と、被告側のプロが並ぶと、法の天秤はもとから傾いていた。

 

私は知ってしまった。
人間のもろさと、裁判官が民が信じる正義ではなく、制度の論理に忠実に従う存在であることを。


 

法に仕える者たちが公正より早く手続きの終結を選ぶことを。
制度の中で誰かの命が「処理」されていく現実を。

 

和解には応じた。でも、心は納得していない。
私の闘いは、そこで終わったのではなく、形を変えて続いている。

アラレを奪われた痛みは消えない。
けれど、その痛みを抱えて生きていく中で、私はひとつの問いを掲げ続けていく。

「命の重みは、誰が決めるのか」
「裁判官は、誰のために判決を書くのか」

私はただ簡単な検査でアラレを亡くしました。アラレが医療ミスによって命を落としたあと、私は苦しかった。病院側は責任を認めず。非常にまれで予測不能なことが起きてしまったという。

私は単なるペットロスではありません。命の重みを軽んじられ、納得のいかない対応をされ、私のなかに「これは看過できない」という決意が芽生えました。

私は本人訴訟という道を選びました。誰かに任せるのではなく、自分の力で真実を明らかにしたいと願ったからです。

 

私は獣医学・医学の知識をもとに、国内外のガイドラインや専門論文を調べ、準備書面をAI(ChatGPT)の力も借りながら何度も推敲しました。
途中、弁護士雇わなくてよかったと思っていました。
なぜなら、専門家に任せていたら、ここまで納得のいく資料は作れなかったから。

自分で書くということは、悩み抜き、調べ抜き、理解したうえで、自分の言葉に変えていくことです。
その過程こそが、命をかけて訴える私の想いを形にしてくれました。

専門家が司法試験合格し、かつ5年かけて磨く実務力と同等かそれ以上の内容だと、実際に評価されたこともあります。

 

でも、裁判所はそれを見てくれたのか?

法廷に出たとき、私は知りました。
そこは「真実」を科学的に突きとめる場所ではなく、「事件処理」をいかに効率的に進めるかが重視される場だということを。

法廷にいたのは、裁判官と被告側の弁護士、そして私だけ。
どれだけ高度な専門資料を提出しても、それを読み解く専門家はいない。
そして裁判官は、科学的な分析ではなく、経験則や「高齢だったから」という曖昧な蓋然性で心証を固めていきました。

 

ある日、裁判官からこう言われたのです。

「敗訴の見込みが高いので、和解を考えてください。」

私は絶句しました。
和解は、私の目的ではなかったのです。
誰かを傷つけたいのではない。
同じことが二度と起きないように、獣医療に対する警鐘を鳴らしたかった。それだけなのです。

本気で準備し、誠実に戦った。
でも、裁判という制度は、私のような個人にとって「真実を語る場所」にはなりませんでした。

日本の裁判官たちにとって、スピードが最優先されます。
和解は「いい解決」に見えて、実は「早く終わらせたい」という側面も持ちます。

そして、本人訴訟の市民には、書面をちゃんと読んでもらえたかどうかすらわからない。

AIとともに作り上げた準備書面。
それは、どこにも届かなかったのかもしれません。

 

本人訴訟はつらいです。
孤独で、理解されにくく、結果は思い通りにならないことも多い。
でも、私は後悔していません。
アラレのために、私はできる限りのことをしました。
そして、記録を残すことで、誰かがこの経験を活かせる日がくるかもしれないと思うからです。

 

もし今、本人訴訟を考えている人がいたら、
どうか「裁判は真実の場ではない」という覚悟だけは、心に留めておいてほしいと思います。

 

アラレへ

あなたの命は、決して無駄になんかしない。
ママは、今も、そしてこれからも、命の尊厳と獣医療の在り方を問い続けていきます。

 

「手になにもない原告」が背負う理不尽の構造

医療裁判に挑んで痛感したのは、原告に課せられる証明の重さと制度としての理不尽さでした。

 

医療事故で愛する存在を失った側が、悲しみに耐えながら、専門的な医学知識と法的知識を総動員して証拠を集め、裁判官にこの医療行為は違法だったと証明しなければならない。しかも、その証明の基準は80%以上の蓋然性が必要です。

 

この「80%」とは何でしょうか? 

裁判官がたしかに、その過失が原因で死亡した可能性が80%以上あると感じたときに、責任が認められるのです。

しかし、現実にはこの80%を数値で示せる方法は存在しません。

医療記録やカルテに記載されていない見えない判断や、こうしていれば助かったかもしれないという可能性に対して、裁判所は冷たく扉を閉ざします。

 

そのため、医療のプロである被告側には圧倒的な優位性があります。カルテも、記録も、すべて被告の管理下にあり、都合の悪いことは記録しない、あるいは書き換えることすら不可能ではない構造です。

一方、原告側には何もありません。事故の原因も、当時の状況も、全部相手の出す資料でしか分からないのです。

 

本来であれば、加害が疑われる側こそ、この行為は適切であり、法的責任はないと証明すべきではないでしょうか? しかし、日本の民事裁判では、原告が何も持たずに立証責任を負わされます。

 

さらに理不尽なのは、医療側が説明義務を怠ったことに対しても、それが死亡に繋がったと蓋然性で結ばれない限り、裁判所は見向きもしません。感情や納得の問題ではなく、それが直接的な原因ではないのでは?と遮断されてしまうのです。さらに理不尽なのは、その蓋然性を図るの医学論文や獣医療ガイドラインでもなく、一担当裁判官の心証なのです。

 

そこに加えて、裁判官が医療をどこまで理解しているのか」という疑問も残ります。実際に私の事件では、提出した専門的な論文、ガイドライン、医師や獣医師の意見書があっても、裁判官の心証には届きませんでした。

 

裁判所には科学に基づく検証機関もありません。あるのは、裁判官が、自らの印象や経験を元に、命の重さを裁いているという現実です。

 

このように、医療裁判とは医学や科学とは程遠い、見えない壁との戦いです。
裁判所は科学の場ではなく、印象と空気で結論が左右される世界。
そしてその不合理のツケを払うのは、命を失った側の家族です。

 

もしこの記事を読んでいるあなたが、医療裁判を考えているなら、まず「これは科学的な判断の場ではない」という前提に立って、冷静に判断してほしいと思います。


正義や真実は、残念ながら、日本の裁判所では最後まで報われないことがたったにあるのです。

アラレの命を失った経緯には、どうしても納得できない。

弁護士を探しても病院側の顧問弁護士がやまほどあるが、飼い主側の弁護士は見つかりません。お金にもならない訴訟、受けたがらないでしょう。
 

だから私は、専門家ではないただの一市民として、医療の過程を一つひとつ検証し、記録を集め、自ら訴えることを決意しました。
すべて自分の手で書類を作り、証拠をそろえ、法律を学び、準備書面を書いてきました。

その資料を見たとき、ある法律家は言いました。
「これは、司法試験に合格して実務経験を5年以上でないと書けないレベルだ」と。
私はただ、アラレへの愛、そしてアラレの死の真実を明らかにし、このような悲劇が二度と起きてほしくないだけなのに。

 

けれど、法の場は、冷酷でした。
証拠の質よりも、高齢だったこと、しかも犬、もともと病気があったかもしれないといった想定がされてしまう。
真実を訴える声は「心証」の壁の前で、届きませんでした。

「あなたの主張は敗訴の見込みが高い」
まるで、アラレの命がもとから弱かったから、予測できたことだから、
それ以上の価値は認められないような言い方でした。

でも、私の心は、まだ終わっていません。
あの資料を本当に読んでもらえたのか。

今の裁判制度では、私の声は、なかなか届けられない仕組みと壁がある。

裁判官に、私は問いたいのです。
命の価値に裁量があるのなら、それはどのように判断するのか?
あなたの裁量は、科学医学を超えていいのか? 心証という名の印象が、真実よりも強いのだろうか?

私にとってアラレは、かけがえのない命でした。
そして今も、あの目に見えない法廷の壁の向こうに、私は問いかけ続けています。

静かに、けれど確かに命が消えていく瞬間を、私は目の前で見つめました。


 

愛する家族を失い、その命の終わりが誰かの過ちだったかもしれないと気づいたとき、私はただ真実を知りたかったのです。そして、二度と同じことが起きないようにと願っていました。

 

だから、私は裁判に踏み出しました。

科学の力、医学の論理、事実に基づいた証拠。それらがあれば、きっと伝わるはずだと思っていたのです。ですが現実は、そんなに甘くはありませんでした。

 

私は生物学を専門にしてきました。だからこそ、診療記録、ガイドライン、論文、医師の意見書、できる限りの医学的証拠を集めました。それはどれも、命の流れを理論的に追い、過失があったかどうかを明らかにするものです。

しかし、裁判所の中では、そうした科学の声がまるで風のように、素通りしていくように感じられました。

 

裁くのは法律のプロ?であって医療のプロではない

日本の裁判制度では、医療裁判であってもそれを裁くのは医療の専門家ではありません。
法律に詳しい裁判官が、医学や科学の複雑な資料を読み、自ら理解するように見えるかもしれませんが、心証で結論を下します。

心証とは、簡単に言えばこう感じた、こう思ったという、裁判官の主観的な判断です。
いくら理論的に因果関係を示しても、それが担当裁判官の腑に落ちないとされてしまえば、負けてしまう。
これが心証主義の恐ろしさです。

 

東京地裁には医療集中部があると聞きました

医療事件を専門的に扱う部があると知ったとき、少しだけ希望を抱きました。でも、ある弁護士の方からはこんな話も聞きました。

「医療集中部があるからと言って、必ずしも理解が深いとは限らない。むしろ、型通りに処理されることもある。だからあえて避ける弁護士もいるんです」と。

たとえば、人間の医療と違って、動物医療については同じ命という認識を持たれにくい現実もあります。
命の重さに違いはないはずなのに。

 

私たちは、診断をAIに任せる時代に生きています。病態を画像で解析し、データで管理する時代です。
なのに、裁判所では証拠よりも裁判官がどう感じたかが重要視される。科学の声がかき消されていくこの制度に、私は深い無力感を覚えました。

だけど、それでも声をあげたことを、後悔はしていません。
アラレに、私は「ママは最後まであきらめなかったよ」と言えるから。
 
私は学びました。この国の司法は、必ずしも科学に耳を傾ける場所ではない。
制度は私たちが思うよりずっと古く、閉ざされ、そして変わろうとしない。

だから私は、せめて記録を残したいと思います。
同じように悲しみ、理不尽に傷ついた人のために。
そして、未来の命を救う一石になればという想いを込めて。

科学と正義が、いつか手を取り合える社会を願って。

軽井沢や北軽井沢を訪れるたびに、心が浮き立つのは澄んだ空気と爽やかな風。そしておしゃれなカフェやレストラン。
でも、それだけじゃない。本当の「軽井沢の味」に出会いたいなら、レストランやお土産屋さんではなく、直売所をのぞいてみるのが正解です。

地元の人たちが毎日通う本気の美味しさが、そこにはあります。
今回は、そんな軽井沢〜北軽井沢で絶対立ち寄りたい、とっておきの直売所をご紹介します。

 

1. 発地市庭(ほっちいちば)

 

 

軽井沢町が運営する人気の直売スポット。


7月下旬〜8月末のトウモロコシの時期には、開店前から長〜い行列がズラリ!朝採れのとうもろこしは、まるでスイーツのような甘さ。午前中には売り切れてしまうことも多く、早起きして行くのが鉄則です。

野菜のほか、地元のパン屋さんの焼き立てパン、信州サーモンやジャムなど軽井沢らしい加工品も充実。おしゃれで機能的なテラス席付きの建物で、観光の途中にも立ち寄りやすいのが嬉しい。

 

2.久保田農園直売所【北軽井沢交差点すぐ】

 

 

北軽井沢をよく知る人も「お、ここか!」と声を上げる場所にあるのがこの直売所。
北軽交差点のすぐそばにあり、駐車場も入りやすくて便利。しかも嬉しいことにほぼ一年中営業中!

夏には地元ブランド「419キャベツ」やとうもろこし、秋にはりんごやかぼちゃなど季節の恵みがずらりと並びます。419キャベツは、レタスのように柔らかくて甘い幻のキャベツと言われています。しかもここでは、市場に出ない2等品をお得に購入できることも!

手頃な価格で大満足、しかも農家さんの顔が見える安心感。北軽井沢ドライブの途中に、ぜひ立ち寄ってほしい一軒です。

 

3. 羽生田直売所【浅間牧場近】

 

 

「えっ、ここに?」と思うような別荘地の一角にある、地元密着型の直売所。
営業は7月〜9月の夏季限定ですが、ファンの多さはピカイチ。

その理由は、地元農家との直接契約による高品質な野菜たち。もちろん「419キャベツ」もラインナップにあり、見つけたら迷わず買いです。さらに全国発送も受付中で、別荘滞在中に実家へ送る、なんて使い方も◎。

清潔で見やすく、買いやすい。農家さんの思いが詰まった誠実な直売所という印象です。

 

 
4.松本スイカ直売所【(浅間牧場向かい】

北軽井沢の夏といえば松本のスイカ。
浅間牧場の目の前、夏の間だけ登場するスイカの直売所は、を引く存在です。

シャリッとした歯ざわりと驚くほどの甘さで、東京からわざわざ買いに来るファンもいるほど。
なんと日曜には「アウトレットスイカ」販売もあるそうで、形がちょっと悪かったり小さな傷があったりするだけで、味は極上、価格はびっくり。

旅の途中でカットスイカをその場で食べれば、そこはもう天然のスイーツパーラーです。

📍浅間牧場入口交差点そば
🕒 7月中旬〜8月下旬ごろ(土日のみ営業)

 
旅先の直売所は、観光にめけないおもしろい。

レストランでは味わえない、農家直送の野菜や果物。
それを手に取って、食べて、少し会話をして、「また来ます」と言える場所ができる。

そんな出会いが、軽井沢・北軽井沢にはあります。
観光スポット巡りにちょっと疲れたら、直売所めぐりでホッと一息ついてみてはいかがでしょう?