春の陽気で、すっかり暖かくなりましたね桜

 

娘と春を味わいたくなり、和菓子屋へ

水芭蕉と桜よだれ

 

と思っていたら、季節は移り変わり、街路樹のハナミズキが満開に。

 

通勤の時に、ハナミズキが並ぶ道と百日紅が並ぶ道を通るのですが、毎日の木々の変化を見て四季の移ろいを感じられるので、お気に入りです。

 

時が前後しますが、帰省2日目は、兄と姪っ子ちゃん、私と娘で福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる三池炭鉱に念願叶って行ってきましたニコニコ私は、金山、銀山、炭鉱などがどうやら大好きなのです飛び出すハート三池炭鉱は、坑道に入れないのが残念でたまりませんが。

 

世界遺産に認定された三池炭鉱ですが、観光客はぽつりぽつり。どの場所にもボランティアガイドさんが駐在していて、懇切丁寧に説明してくれます。建造物は、見る人によっては地味でおもしろみに欠けるかもしれませんが、歴史の詰まった日本のエネルギー源を支えた三池炭鉱、是非とも頑張ってほしいです。

 

三池炭鉱の何が凄いって、坑道が有明海の海底までずっと続いていること気づき当時、坑夫は、トロッコに乗って地底を30分も進んでいったのですよおいでそれはもう通勤列車。まるで地底都市のようキラキラ実際は、そんな浪漫めいたこと以上に命と隣り合わせな危険な現場だったのですが。

 

三池炭鉱は江戸時代半ばから掘削され、明治政府の官営炭鉱となり、1989 年(明治 22)、三井に払い下げられました。

 

三池炭鉱の特徴は、三井一社に払い下げられたということ。三井独占資本。やりたい放題というわけです。近くには、筑豊炭田がありましたが、こちらはいくつもの中小企業が請け負っていました。軍艦島は三菱、別子銅山は住友。三池炭鉱は、三井と三菱が競り合い、僅かな差で、三井が落札。日本三大財閥が、うなぎのぼりな時代。

 

三池炭鉱は、官営時代の始めから囚人労働が行われ、そして与論島から集団移住させての差別労働。

 

戦争中の朝鮮人、中国人への強制連行・強制労働、連合軍捕虜への強制労働。

 

戦後は、「総資本対総労働」と言われ、日本中を二分した三池争議。最終的には、会社側の切り崩しで、労組は分断され敗北、解雇を受け入れました。

 

さらにその3年後、458 名の死者と 839 名の一酸化炭素中毒患者を出し、戦後最大最悪の労働災害となった炭塵爆発事故が起きました。大量の解雇者を出し、無理な増産体制の下で安全管理がおろそかになった末の大惨事でした。

 

事故当時、一酸化炭素中毒は急性期を過ぎれば後遺症はほとんどないという認識で、体が元気になればまた働けると言われていましたが、実は一酸化炭素中毒には記憶障害や人格変化などの後遺症があり、見た目には分からないので、患者やその家族は大変な心労を負うことになりました。

 

三池炭鉱には社会問題の縮図のようなすさまじい歴史があります。同時にそれは、日本が歩んできた道そのものでもあります。

 

まずは、大牟田石炭産業科学館に訪れました。1日2回ガイドツアーが開催されていて、初回10:30のツアーに参加しました。ガイドさんが、とても分かりやすく説明してくれたおかげで、三池炭鉱がどのように発展していったのかについて理解が深まりましたOK

 

三池炭鉱は、下の写真のように石炭層が有明海に向かって約5度の傾斜で伸びています。この石炭層に沿って坑道を掘り進めていきます。

 

三池炭鉱が、ここまで発展したのには立役者がいます。それは、岩倉使節団に同行した天才技術者・団琢磨。


水没寸前だった三池炭鉱に、周囲の反対を押し切り、巨大な排水ポンプ・デビーポンプを導入し、三井財閥のトップに上り詰め、日本の産業を牽引した人物です。

 

三池炭鉱で掘り出された石炭は、最初は大牟田港から小さな船に積み込み、大きな船が入ることのできる港まで運んでいましたが、団琢磨が大きな船が入ることのできるように三池港を開発しました。 

 

ボタと石炭を持ち比べてみると、不純物の多いボタは明らかに軽いです。

炭鉱町と言えば、ボタを高く積み上げたボタ山がいくつも見られるのが象徴的な景観ですが、三池炭鉱ではボタを埋め立てに利用したので、ボタ山はみあたりません。

 

竪坑櫓の模型


江戸時代から明治初期の採掘は、人力と馬力が主力で、女性も重要な戦力でした。


三井に払い下げられた後、急激に機械化が進みます。


分かりにくいのですが、有明海の海底に伸びる坑道の立体模型。

 

海底へも坑道が張りめぐされていることが分かる写真を3枚ピックアップ。

よく見ると有明海に初島と三池島という丸い形の島があります。坑道に空気を送るために作った人工島です。

 

石炭層に沿って坑道が掘られていることがよく分かります。

 

官営時代の囚人労働では、囚人は裸足で鎖に繋がれたまま坑道へ向かい、1日12時間もの過酷な労働を強いられました。囚人は、坑口で鎖を外され、看守が鉄格子の門を開け坑道へ入っていくそう。鉄格子の先は、囚人だけが入るのか?坑道には、炭壁をくりぬいた表札もかかげた囚人それぞれの家が並び(笑)、残飯を発酵させてドブロクを作ったり、タバコやお菓子やお金もあったり、そこは立派な社会だったそうびっくり働いていたのかな?!(「囚人ものがたり記事→

 

三井に払い下げられた後も、囚人の賃労は、一般坑夫の約1割と安価だったため、三井はその分儲かるので、団琢磨は囚人労働を推進しました。敏腕キレッキレの団琢磨、天才!と思っていたら、ブラック団琢磨もいたわけで、三池炭鉱の闇が真顔団琢磨の生涯は、暗殺で幕を閉じます。

 

囚人が出所した後、刑務所は赤レンガ塀でできていたことから赤門と呼ばれ、もと囚人は、「赤門出たから」というジョークを言ったそう。東大の赤門とかけて泣き笑い

 

与論島の人達は、台風被害による飢餓をきっかけに集団移住してきて、三池港の石炭荷役の作業などに従事していました。言葉の違いなどからあからさまな差別を受け、賃金も低かったそう。それでも、身ひとつで働ける仕事はありがたくもあり、同郷で励まし合い何くそと頑張ったそう。

 

シュロミノ

石炭を船積みするゴンゾウと呼ばれた人達の雨具

 

馬渡社宅の長屋

炭住の家賃は格安またはほぼ無料で(復員兵は無料)、電気もガスも会社持ち、家にお風呂はないけれど、共同浴場は無料でした。三井直属の労働者は、破格の給料でしたが、下請けや日雇い労働者は、全く異なる待遇だったそうです。

 

勤務は3交代だったので、夜間に働いて日中に睡眠をとる坑夫がいたので、玄関の表にこの旗を立てて、周りに分かるようにしました。

 

朝鮮人徴用者が利用していた馬渡社宅の落書きで、朝鮮半島の地名などが書かれています。

 

捕虜用食器は、想像より温かみのある陶器びっくり

 
捕虜達は、もちろん無給だし、炭鉱の仕事は過酷だったから、自分で自分の身体を石で叩くなどの自傷行為をして、医務室に行き、労働を数日間免除されるようにすることがあったそうです。日本人医師は、それが自傷行為だと分かっていても、目をつむったそう。

安全のための道具の多さから坑内の危険度が想像できますね驚き


三池炭鉱と言えば、切っても切り離せないのは、三池争議。争議のきっかけになったのは、会社側三井による大量指名解雇。石油へのエネルギー転換や割安な輸入炭との価格競争で国内生産炭では太刀打ちできなくなったのです。

 

 

大量指名解雇に徹底的に抗い戦った労組。本音では解雇に応じたかった人もいたそうです。全面ストを続けて会社が潰れたら、闘いに勝ったとしても働き口を失い、路頭に迷います。それならば、指名応諾で、加給された割高の退職金を手にして、それを元手に新天地で一旗あげようと思っていた人もいます。

 

でも、組合は、団結が揺るぐことを恐れ、裏切った者は全国の労組へその名を知らせ働けなくなるようにすると脅し、許さなかったのです。

 

争議は「総資本対総労働」の戦いの象徴と位置付けられ、炭労(日本炭鉱労働組合)と総評(日本労働組合総評議会)が全面的に応援し、全国からカンパが集められ、ストで収入がなくても、組合員が干上がらずに済んだのですが、一方で、そうして祭り上げられてしまった以上、引くに引けなくなり、組合員の自由意志を顧みる余地などなくなった側面もあります。

 

組合内部には徹底抗戦に疑問を持ち、会社側との話し合いの道を探りたいと思う人達が出てきましたが、組合中枢部にそんな意見に耳を傾けるような雰囲気はなく、組合は二分して、新労組が結成されました。

 

旧労組の組合員にとっては、新労組に移った者は、会社側に寝返った裏切り者。今まで、炭住で坑夫達は、命懸けの仕事を通しての連帯感は非常に高く、家族のように強い絆で結ばれ、賑やかな生活を送っていたのに、労組の分裂は、家族間に深刻な亀裂をもたらしました。

 

なんでこんなことに…?

 

市民の中に、延々と続く抗争にいい加減うんざりな気分が蔓延し、特に商店街などは、いつまでも争議が続くと商売にならないので、ストを止めてくれるよう旧労に働き掛ける動きも出始めていました。当時は、市民の間で「旧労はやり過ぎた」という意識が定着し、少々疎まれる存在となりつつもあったのです。

 

でも、争議が終わり、旧労の敗北がはっきりすると、庶民の同情は、やはり官品屓という日本人の気質もあるのか、負けた旧労側に向かいました。その後も旧労から新労に移る者が後を絶たず、遂に組合員の数でも逆転されてしまうと、敗者にエールを送る風潮に拍車が掛かかりました。

 

日本のエネルギー源を支えてくれていた裏側では、こんな壮絶な人間ドラマがあったのですダッシュ

 

話を科学館に戻して、ここ科学館の見どころは、地下400mの世界へ通じるダイナミックトンネル。


エレベーターに乗って地下へというなんちゃって。娘は、信じていましたけど泣き笑い最後に地上に戻るために上らなくてよくて、からくりに気付いていました。

 

トンネル内部には、坑道で活躍した巨大な重機がずらりと展示されていました。

 

閉山間際の最新の掘削機

 

大牟田石炭産業科学館のガイドは、約1時間あったのですが、大満足飛び出すハートもしも、三池炭鉱に来られる場合は、最初に科学館を訪れ、ガイドツアーに参加することをおすすめします指差し

 

ランチは、釣船直営で新鮮なお魚がいただけると評判の大牟田駅近くのひよこ食堂へ。私はお刺身定食、娘はチキン南蛮。レストランを検索している時、大牟田は、イカタル弁当がソウルフードと知ったのですが、チキン南蛮の名店も多いのです。

 

どどんと舟盛り気づき

どのお刺身をぷりっとしていて、おいしかったですよだれ

 

次は、万田坑へ。こちらもガイドツアーが毎定時に開催されるので、参加しました。

 

当時の万田坑模型

 

第二立坑櫓と巻揚機室

 

ヘルメットをかぶって巻揚機室へ潜入。ジャックエンジンやウインチ、巻揚機が当時のまま残っています。手動のブレーキを実際に手に取って動かすことができます。

 

浴室

 

巻揚機室の運転手や坑底と連絡を取り合う坑口信号所


第二立坑櫓の下にあたる部分で、ここからケージに乗って、坑底へ向います。

 

ケージは、約25人も乗り、1分間で264mも地底へ降りるのです。


炭鉱電車

炭鉱電車では、石炭の運搬だけでなく、物資運搬、労働者や通勤用に使われていました。

 

坑内運搬用のトロッコから石炭とボタを選別する選炭場へ運び、今度は炭鉱電車で石炭が運ばれていく模型。模型と実物の両方見ると分かりやすい。

 

次は、宮原坑へ。子ども達は、また同じような所に連れて来られたと遠い目凝視大人の遠足に付き合ってくれてありがとう泣き笑い

 

ここにもボランティアガイドさんが常駐していて説明を聞けるのですが、私は夜に義姉や甥っ子達との会食があるので、時間を気にして宮原坑は見るだけに自粛しようと思ったのですが、兄がガイドをたいそう気に入り、またもやガイドさんに案内してもらうことにしました泣き笑い

 

団琢磨が導入したデビーポンプ室のレンガ壁


レンガは、イギリス式で積まれています。坑道と言えば、湧水との戦いというイメージがありますが、ここ三池炭鉱は地下水が豊富で、石炭を1トン掘るのに10トンもの水が湧き出たそうです。デビーポンプを用いることでこの問題が解決したそう。団琢磨が周囲の反対を押し切って推すわけだ、恐るべしデビーポンプの力。

 

第二立坑櫓

手前に見える茶色の3本の管は、排水管。

 

人車

 

第二立坑巻揚機室

 

訪問者が私達以外に2、3組で、予約せずともガイドさんの説明をゆっくりガッツリ聞けましたニコニコ

 

最後は、昭和天皇が視察された三川坑へ。

 

昭和38年炭塵爆発事故が起こった三川坑の入昇坑口

階段を降りて地下通路を進むと、第二斜坑につながっています。

 

人車

 

三川坑のすぐ傍に三井財閥の社交場として活用された三井港倶楽部があります。

外国高級船員の接待や皇族や財政界の重鎮が訪れた三井の迎賓館です。中を見学できたのですが、もちろん格調高い優雅な造りで、この華やかな迎賓館と暗くて、暑くて、湿度が高くて、酸素が薄くて、落盤の恐れのある粉塵の舞う坑道の過酷な環境を対比してしまい、素直に美しいと思えなかったですネガティブ

 

同じ人間なのにこうも違う環境に置かれる世の中の不条理。

 

車窓から団琢磨が開発した三池港を眺めながら、帰宅の途につきました。心にチクッとしたものを感じながら。

 

三池港模型

 

 

今回、三池炭鉱を訪れることになり、色々な情報を調べて読んだのですが、出てくる出てくる三池炭鉱の闇。搾取する側とされる側。一蓮托生の運命共同体のような狭いながらの楽しい我が家の炭住の暮らしにほっこりしたり、クスッと笑えたりするのですが、同時に人間の尊厳が守られているとは到底思えない資本側の囚人や労働者への扱いは、やはり人間というものの負の本質を見たようで、鬱々としてしまいました。

 

また、炭鉱閉山により、大量の失業者が出たわけですが、仕事を失った炭鉱夫の多くは、エネルギー源転換に伴い、新たな国策として推進された原子力発電所に、原発(放射線)のリスクをよく知らないまま「原発ジプシー」と呼ばれる原発作業員として従事しました。言葉を失う真顔

 

さて、夜は兄家族が揃い賑やかな食卓。

 

兄は、兄の子ども達がまだ幼稚園と小学1年生だった時に、家族で三池炭鉱を訪れたことがあるのですが、子ども達はほとんど記憶にありません。その時は、まだ常駐のガイドがおらず、自分達で見ただけだったので、今回ガイドさんにたっぷり話を聞き、「ホント分かりやすくて良かったよ。海底にあそこまで続いているとか知らなかったし。説明を聞くのと聞かないのでは全く違うな」と大絶賛していたのですが、義姉さんは、「昔、連れて行かれたけど、人が全然いなくて。だって建物が残ってるだけでしょ。あんなのおもしろいの2人(兄と私)だけだよ」とキッパリ泣き笑い

 

三池炭鉱までのドライブ時間は片道約3時間と長かったのですが、私が本などから仕入れた三池炭鉱の前情報を興味を持って聞いてくれ、仕事が忙しく読書の時間が全くとれていない兄は、「やっぱり本はいいよな」と言ってくれ、似た者同士というか、兄が兄でよかったと思うのでした。

 

晩御飯は、両親が仕出しのオードブルとお寿司を用意してくれました。多人数の料理は大変だし、仕出しで十分ありがたく良いのですが、以前は色々手料理をふるまってくれていたので、両親の加齢を感じることに。

 

事前に聞かれた娘のリクエストのネギトロ寿司をたくさん注文してくれていて、娘はそれだけで大満足でしたよだれ寿司父母ありがとーびっくりマーク


流れ星おまけ

空港で購入した中津の郷土菓子「けんちん」。

 

商品ポップを読んだら、手に取っていました。

 

ういろうにきけらげのプチプチ食感が入ったそのまんまの味でしたてへぺろ