私たちは、人生は楽しく幸せであることを望みますよね。


それなのに、思い通りにいかないことがあったり、

めんどくさかったり、


あのとき、こうしとけばと後悔したら、

未来、あんなふうになっちゃったらと心配したり


まぁ、いろいろ、

感情が揺れ動くようにできている。


まるで、振り子のように、

感情がいったりきたり、


一方の、喜び、幸せ、にとどまってくれたら

いいのに、



まるで、昼が夜になることを

止められないように、


いったり、

きたりしている。



そんな振り子のようなサイクルを

何万回もへて、



くるくる、くるくると

あらゆる体験や思考や感情を生ききする。



つまるところ、

このプロセスが人生を生きる

ということ。



だとすると、喜び、幸せと

悲しみ、不幸は、足し引きゼロになるように

できてるのかな?なんて思います。



片方が、極端にふれてしまうと、

バランスが崩れて、この世に存在できなくなる。



だから、両方あることが、

この世界にカラダをもち生きることと

である、ともいえるんだなと。



この、両方あることで、

私たちの世界は進化発展してきたし、

科学も医療も精神世界も、



どうにか、この世の真理をつかみ、

両方に揺れ動く世界や感情の片側の痛みを、

少しでも感じずにいられる世界をつくりたかったわけで。



でも、気づきはじめるわけです。



片側しかないって、

実は、無理だよね?



だって、お腹がすくから、

食べることに幸せを感じるし、


なかったものを得るから

喜びを感じるし、



つまり、幸せや喜びを感じるには

その前に、その反対側にあるものを

体験して、経験してないと、


感じられないもの。



じゃ、喜びや幸せに生きる、って

一体なによ?と問われれば、



たぶん、強い感情をぼんやり流せることと

リンクしてるんじゃないかな?って

思うんです。



つまり、ボーと受け流す術を

習得するみたいな。



感受性が高い族にとっては

(エンパスや繊細さん)

強い感情ほど、さらに強く刺激を受ける、

我々のようなタイプは、


プラスの出来事に対してより強いプラスの感情を

マイナスの出来事や感情も、より強いマイナスの感情を



人より感じます、


ゆえに、



プラスの感情に執着しがちになるし、

マイナスの感情に敏感になる。



もっと、プラスがほしいー!ってなるし

マイナスくるなー!ってなる。



なんなら、プラスが幸せや喜びを

運んでくると思っているから、よけいに

プラスをほしがるという感じ。



でも、振り子は、バランスをとるために

動く。



これは、外側の事象のみならず、

自分の体、さらに内側の思考、感情も

同じように、振り子のように

バランスをとりつづける。



だとしたら、いかに、

振り子の動きに、



へぇー、とぼんやりできるか、

というところ。


ぼんやりできると

なにがいいか、というと、



振り子にあわせて、

一喜一憂して疲れ果てない。



疲れ果てないと、

なにが起こるかというと、



凪の中で、ふわっと、

どこからともなく沸き立ってくる

匂い立ってくるような、



幸せや、喜びの感覚。



強い強い歓喜の感情とはまた別の、


凪の、中庸の場でおこる

安心感にちかい、幸せや喜び。



本来、私たちのもとに、

すでに、ずっと存在しつづけてるものなんだけど、



振り子に振り回されているときは、

そこに一致できないのかな、

って感じます。


だから、また、外に向かって、

両極のプラスだけを感じに、考えに

手にいれようとして、



振り子が揺れてしまう。



私は、そういうことが好きだし、

でも、たぶん、そこを手放したとき、



振り子の方の片側だけがほしいと

求める気持ちでさえも、ゆるしながら、



様々な事象や、自分のゆらぎを

ぼんやり、ぼーちゃんみたいに、



ほー、へー、と

眺めてみつめることを、練習してくならば、



そこから、その凪から、

なにか、自動的に、私にとって、


あなにとって、最善のことが展開してくんじゃないかな?



そんなふうに、近頃は感じています。