足踏みばかりの日々は、明日の旅の準備だったかもしれない


沢木耕太郎さんの最新刊、旅のつばくろの帯に書いてあった言葉。



自律神経失調症で療養を長くしていた私にとっては、とてもとても響く言葉であった。


自分の期待どおりに、自分の思いどおりに人生を紡ぐ方法という、情報は巷に溢れていて、私自身も20代、働き先で、自分の性質にちっともあわない職場で、なんのために働くのか?


それが、わからなくなり、


なかば、落武者のような、ひどい顔をして会社通いをしていたとき、魔法のような方法に出会ったと、

自己啓発コーナーで、たくさんの本に触れてきた。


まさに、本に書かれたことを実践する中で、

自分のやりたいことがを見つける足掛かりになったと思うし、


たくさんのやりたかったことを叶え、到底自分にはできっこないと思えることも叶ったりして、

知識を得ることの大切さを知った。


でも、


人生は、やはり面白いもので、順風満帆のときもあれば、あれ、全然、うまく進めないぞ、思ったとおりにいかないぞ、辛いぞ、



という向かい風の場面に出会わせてくる。


これが、リアルな生なのだと、のんきに言えるようになるには、その渦中からようやく一歩踏み出したときなのだけど、、


向かい風や人生の踊り場的な、一歩も前に進まないような感覚がある時期を経て、私の中で、それまでの人生にまったくなかった、うまくいかないときへ向かい方という、新しい感覚を生み出した。


その苦しみの渦中、本にはたくさんの知識、それもその著者が体験さたり、研究したりしたことの集大成が書かれていて、確かに、参考になった。


でも、実際に自分のリアルな生の中で、ぶちあたる壁というのは、単に法則などにあてはめることはできなくて、さらに人の体験がまるまる自分にすべて有用でもなく、


試行錯誤しながら、必死で情報を集めながら、

膨大な無駄に思えるような孤独な時間の中で、

自分なりに、答えらしきものを見つけていくプロセスで導きだされる、生々しい感覚だなと思う。


きっと先人たちは、その生々しい感覚をどうにか文字にして、次を生きる世代にバトンタッチしようと、文字にし、それが本という形で手にとれる訳だけど、


やっぱり、自分なりの答えは自分で紡ぎ出していくしかないのだと、強く思うようになった。



冒頭で紹介した沢木耕太郎さんは、16歳から旅を始め、今、78歳くらいになられているはず。


私が学生だった20年前、彼の深夜特急という世界を巡る旅の本を片手に中国で上海から北京までの寝台列車に乗った。


たぶん、世界を夢みた人たちの多くは、沢木さんの本にインスパイアされていると思う。


世界中を旅し、いま、また、16歳ではじめて旅した国内を巡る、沢木さんの旅のエッセイ


自分の、この目で見て触れたもの、光景、人々、

人生のいろんな場面、


順風満帆だけじゃなく、壁や、向かい風、踊り場、そういった、人があまり経験したくないものも

経験ものを経験し、生きた人たちはたくさんいて、


私のいまの興味は、それがどう、物語りとしてその人の人生の中で展開していくのか、


足踏みばかりの日々は、明日の旅の準備だったかもしれない


すべては次へと、あるいは、今生の目的へとつながっていたと、そんなふうに物語は最終章を迎えるまでわからない訳だけど、


足踏みばかりの日々は、やっぱり明日の旅の準備だと思えたら、すてきだなと思う。


そして、自分自身の生で、それらを体現しながら、最終章を迎える日が楽しみでもある。