喜びにそって生きる、それは自分の内側から湧き出る感覚を大事にする生き方。


朝、散歩をしながら、夫とこんな話をしていた。


これまでの私の人生は、どちらかといえば、

くっきりとある程度、見通せる道の延長線らしき中で、さらに自分にとってワクワク、成長、よりよくなりそうな道を選ぶ、という選択の繰り返しだった。


それは、すごく、楽しいときもあったけど、


あるときに気づいた、あれ?もう見通せる道の中に、手に入れたいものがない。


これまでの道は、自分の内側の感覚から湧き出たものだと思ってたけど、より深くみてみれば、


社会的によし、すばらしい、価値があるとされている、そういう基準もはらんでいて、


例えば、就職という道は、お給料も保証されていて、前途の道でいうと、ある程度、現在地点から見通せるように思えたわけで、(本当は、見通せてる気がしてるだけだけど)不安もあるが小さめ。



でも、あるとき、それ以上、描けなくなるときがきて、それは、きっと、その人にとって変容のタイミングがきている時なんだと思う。


喜びにそって生きるのは、まるで松明の炎を手にしっかりにぎりしめ、真っ暗な森をゆくようなものだと思う。


自分の手に握りめた炎の光を頼りに、あちらへいこうと示す、直感やなんとなくの感覚の方へ足を向ける、


でも、道は真っ暗で、歩いた先になにに出会うか、もしかしたら、崖があって真っ逆さまに落ちるかもしれない。


そんな怖さと、いつも隣り合わせ。

頭で、どれだけシュミレーションしたって、答えはでず、一歩も動かなければ、いつも一寸先は闇。


ふと、右を見ると、先人や大多数の人が通ったであろう、なんとなく見通せる道がある、でも、その道には、もう、どうしても足を踏み出したくない。


そんな瞬間が訪れる。


そして、安全そうに見える、知ったような道へいかず、ほんの一歩、喜びに向かって歩を変えたとき、

あれだけ、闇しかなかったのに、不思議とわずかにもう一歩、どちらへ踏み出せばいいか、という感覚がやってくる。


一歩踏み出すと、次の一歩が見える。

もちろん、踏み出さず、休むときがあっていい


ただし、正解はいつもなくて、結果はわからない。

幸せになるかもわからない。苦しい事件があるかもしれない。


でも、たぶん、自分自身とのつながりはどんどん深くなっていき、自分のどんな側面もall okと感じるようになっていく道だと思う。


すると、不思議に、また喜びの感覚が道を示し、

命がその上を展開していく。


まるで、自分という意識単独ではなく、大いなるものと、一緒に道を歩く感覚。


喜びに沿って生きることは、幸せになるための手段ではなく、この世界に生まれてきた目的そのものかもしれないなぁと思う。