古事記(10)素人はしろうとなりに 皇統の始まり(6) | 個人資産を守れ!アカウントアグリゲーション考

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追加(2018.01.25)・・・やって後悔するか!!!、やらずに後悔するか!!!

          「悠久(ゆうきゅう)の歴史」で育まれた風土・氏神信仰


  古事記(10) 日本の古代史と(中国)王朝史

「引用」中国歴代王朝
http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/jidai.htm

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『神武天皇』(紀元前660年以前)の年代がリアルに感じられませんので、もっと身近な例題がないかとネットで探していたら(中国)王朝の「後漢書」の文字が目に付きました。

後漢と言えば「三国志演義」であり、若い頃夢中になって読み、時代に入れるこんな身近に感じる例題はありません。
(注) 『三国志演義』 (さんごくしえんぎ、 繁体字: 三國演義; 簡体字: 三国演义)は、中国の

    明代に書かれた、後漢末・三国時代(魏、蜀、呉)を舞台とする時代小説・通俗歴史小

    説である。

 

 今では(平成)1年が 365日、元号(西暦)で今年は平成28年(2016年)、しかも文字が有りますから、このように書けますし、読んでも貰えます。しかし、古事記で対象とする時代に「文字」はありません。

1年が何日で何を基準にして、みんなの共通認識が出来、共有されていたのか。もちろん、「文字」はありませんから記録はありません。
 (中国)各王朝は正史を作りました。年代については王朝ごとの整合性に関わってきます。(以下、ウィキペディアによります)
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 倭・倭人関連の中国文献 :倭についてはじめて書かれた正史は、後漢の初頭時代に班固が書いた『漢書』地理志であり、王充が著した『論衡』(ろんこう)に「倭人来たりて暢草を献ず。」とあり、周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の年代です。
 また、楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、とも有り、倭人の国があった。
(注) 楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した漢四郡の一つである。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。


漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。

奴国(なこく)1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」にあらわれる倭人の国である。
吉備国(きびのくに)は、古代日本の地方国家である。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有力な勢力の一つだった。
ヤマト政権と同盟して列島の統一・治世に貢献し、古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重視された。

 

● 今まで、(中国)王朝の史書を中心に「倭」を拾い出して来ました。一連の流れをみますと、「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。

約40年後に(後漢の光武帝が建武中元2年(57年))漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)を百余国の中の奴国(国と認めている)へ下賜(かし)していますが、「大和国」は百余国の中に入っておりません。古事記は、これから日向(ひむか:天下原)を御発ちになる訳ですから。

 

神武天皇(神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと))は、同時代と思われますので、後漢(『三国志演義』)と繋がりました。

前半は劉備・関羽・張飛、後半は諸葛亮(諸葛孔明)とほぼ同じ時期、日本で磐余彦(いわれひこ)が活躍しているイメージが湧けば「古事記」も随分親しみがわきます。
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「西暦に換算」 時代のイメージの為に年号を「強引」に換算しました。
基準は、「倭の五王」の第19代允恭(いんぎょう)天皇の西暦が、古事記と日本書紀で1年違いなので「453年」を持ってきます。
次に、(57年)の漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は、国が有った事になり、神武天皇の始まりと仮定しました
 基準の453年から57年を引いた年数(396年間)を18代(17代と18代は兄弟なので2代で

1代)で割ると22年の平均です。
 第19代允恭(いんぎょう)天皇が22歳で即位(そくい:天皇の位につくこと)して22年後に、皇太子にご譲位するサイクルを18回繰り返すと初代の神武天皇にたどり着きます。

(基準の453年は崩御年(ほうぎょねん)なので、神武天皇の57年から22年を引いた西暦35年が即位した年号です)・・・西暦前後に神武天皇がご活躍されました。

 

(注意) 【引用】「現代語 古事記」ポケット版  著者:竹田恒泰 発行所:株式会社 

          学研プラス 262頁
   第10代崇神(すじん)天皇は御年168歳で、戊寅年(つちのえとらとし)12月(しわす)に

   崩御(ほうぎょ)あそばされました。『古事記』では、この時初めて崩御年(ほうぎょねん)

   に干支(かんし)が付けられます。戊寅(つちのえとら)は西暦258年に該当すると思われ

   ます。

★ ちなみに、第10代崇神(すじん)天皇は、丁度半分ですが上記の計算で255年となり、258

  年とは3年違いです
  (中国)王朝を統一した「秦:しん」(始皇帝)紀元前221年、(四面楚歌の)前漢:劉邦(りゅ

  うほう)紀元前202年  『三国志:魏・蜀・呉』220~265年ですので、神武天皇の活躍はそ

  の真ん中ということになります。

 

★ 第26代 継体(けいたい)天皇に大連(おおむらじ)等がお迎えを出したわけですが、表に

     して改めてみますと、日本の政治土壌の特異性が浮き彫りになります。

   (外国では一般的に自分の上に人を置こうとしません)

 

★ 「悠久(ゆうきゅう)の:果てしなく長く続く」歴史、日本の風土(四季・島国等)・氏神信仰に

 育まれた精神性は、親和性に優れている仏教を除いて日本独自の文化も育てて来ました。
  漢字の伝来以後、平安時代の仮名文字の発明、明治時代の英語の日本語への翻訳、

  democracy(デモクラシー:民主主義)等、その反面、義務教育の授業に取り入れても、

  平成の時代に入っても日本人は英語が苦手です。
(注) 青森市三内字丸山305
  三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。
青森県外ヶ浜町 :2013(平成25)年3月27日 史跡指定
史跡 大平山元遺跡 [おおだい やまもと いせき] 
http://jomon-japan.jp/jomon-sites/odai-yamamoto/
青森県津軽半島の東側中央部、陸奥湾に注ぐ蟹田川左岸の標高26mの河岸段丘上に立地する、縄文時代草創期初頭 (紀元前13,000年頃) の遺跡です。
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仮名の生れる以前(ウィキペディア)
日本は本来固有の文字を持たず、中国大陸より文章を記す文字として漢字が伝わった。しかし漢字で記される中国の古典文、すなわち「漢文」は当然ながら中国語に基づいて記されており、音韻も構文も異なる言語である日本語を文章として表記するものではなかった。この「漢文」を日本語として理解するために生れたのが「漢文訓読」である。

 

漢文訓読(かんぶんくんどく)とは、文語体中国語の文章である漢文を文体そのままとして、符号(返り点)・送り仮名などを付けることによって日本語の語順で読解できるようにすること。
古くは乎古止点(をことてん、旧:をことてむ)によって、漢文に「を」や「こと」などを補うのに興り、返り点(かえりてん、旧:かへりてむ)で読む順番を示したり、送り仮名や句読点、片仮名などで日本語の訓で読む助けにしたりして発展した。ヲコト点・返り点・送り仮名・振り仮名などを総称して訓点という。

 

『漢文訓読文』 漢文訓読したものを更に日本語の文体として書き直した日本語文章を漢文訓読文(かんぶんくんどくぶん)あるいは単に訓読文(くんどくぶん)と呼ぶ。

一般に訓み下し文・書き下し文とも呼ばれている。
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平安時代の平仮名の文章和文は、単語は大和言葉であり、平仮名を用いるのが基本であった。しかし「源氏」だとか朝廷の官職名など、大和言葉に置き換える事が不可能で漢語を用いるしかない場合は、漢字のままで記されていた。当時は漢語はあくまで漢字で記すものであり、漢語を平仮名で表記する慣習がなかった(現代も一部の例外はあるが、漢語は漢字で書くのが基本である)。また文章の読み取りを容易とするために、大和言葉も必要に応じて漢字で表記された。ただし和歌の場合は、慣習的に漢語や漢字の表記を避けるように詠まれ書き記されていた。

 

一方で文章の構文については、漢字が導入された当初は「漢文」の規則に従って読み書きされていたが、その後、漢字で記した言葉を日本語の構文に従って並べる形式が生まれた。さらに、助詞などを借字で語句のあいだに小さく書き添える形式(宣命書き)が行われるようになり、やがてそれら借字で記した助詞が片仮名となった。つまり、漢語や漢字で記された文章に、片仮名が補助的に付加されることがあった。
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 古(いにしえ)の日本人は和歌(感性・皮膚感覚)、(中国)王朝は武力・権力、西欧は論理的思考の特性を【育む】(はぐくむ)んできて今に至るまで続いているのでしょう。

 「お元気ですか」の挨拶(声掛け)に、たいていの場合、「お陰様で」と返事をします。誰の「御かげ」かを疑問に思いません。
日本には、八百万(やおよろず:沢山の意味)の神がいると言いますが、日常生活に「感謝の念」が根底にあるからでしょう。

 

一般の人 → 政府 → 象徴(天皇・権威)→ 国津神(土着神) → 高見原(中二階の神・天照大神) → 別天神(ことしろのかみ:天之御中主神(あめのみなかむしのかみ)の六層構造で護られて居ますので「行き過ぎがあっても」どこかで「振り子の振り戻し(真ん中に戻る)安心感が働くのでしょう。