domisotaka68のブログ

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沖縄 琉球 歴史 音楽


 私のモラトリアムと沖縄リバイバル 

1988年、昭和の終わり頃。

私はマブヤー(魂)を沖縄に落としたまま、

凧の糸が切れたように東京へ飛んで行った。


私は一浪して東京の大学へ進学した。当時の私には「沖縄は狭い」「もっと広い世界を見たい」という気持ちがあった。音楽も文化も、すべて東京にあると思っていた。沖縄を出ることが、自分の人生を切り開くことだと信じていた。翌1989年には昭和が終わり、長渕剛の「とんぼ」が流れ、映画『ウンタマギルー』が公開された。平成という新しい時代が始まった。しかし、私を待っていたのは都会の自由ではなく孤独だった。東京の片隅の三流大学で大学生活にも馴染めず、自分の居場所を見失い、やがて鬱状態になってしまった。その頃、皮肉なことに沖縄では新しい文化の波が生まれていた。1990年、同世代のBEGINがデビュー。JALのCMでは沖縄の海と空が映し出され、「沖縄=楽園」というイメージが全国へ広がっていった。1991年には、お笑い番組『お笑いポーポー』の笑築歌劇団が人気を集め、りんけんバンドや琉球フェスティバルも沖縄文化を力強く発信していた。そして1992年。宮沢和史の『島唄』がヒットし、映画『パイナップル・ツアーズ』が公開される。琉球大学映画研究会出身の若い監督たちが、沖縄の日常を新しい映像感覚で描き出した。徳永英明「壊れかけのRadio」.槇原敬之「遠く遠く」.そして後に安室奈美恵がデビューするなど、平成初期は音楽そのものが時代の空気を映していた。沖縄音楽、沖縄映画、沖縄文化が全国から注目され「沖縄」が一つのブランドとして再評価され始める。


私が沖縄を離れたあとに、沖縄が始まった。

東京でその変化を遠くから眺めていた私は、「沖縄」という言葉を耳にするたび、心のどこかがざわついた。誇らしさというより、置き去りにされたような寂しさだった。

「あれだけ頑張って東京へ行ったのに。」

「沖縄に残っていた方が良かったのではないか。」そんな思いが何年も心に残った。沖縄音楽は「郷愁」や「癒し」、そして「ワールドミュージック」として全国へ広がっていった。音楽は売れ、島唄は多くの人の心を癒やし、「沖縄」は一つの商品としても語られるようになった。けれど、その頃の私の中の「沖縄」は、どこにも居場所を見つけられなかった。「癒し」と「消費」が同居し、「ふるさと」が新しく再構築されていった平成の始まり。その一方で、私は東京でも沖縄でも居場所を探し続けるモラトリアムの漂流者だった。

エピローグ

今振り返ると、それは私だけの物語ではなかったのかもしれない。バブル崩壊後、日本全体もまた進むべき道を見失い「失われた30年」と呼ばれる長いモラトリアムの時代へ入っていった。私の人生と平成という時代は、どこか重なっている。平成の始まりになるとは知らず、昭和の終わりに私は沖縄を離れ、自分の居場所を探していた。そして平成が終わる頃には、今度は沖縄そのものの歴史や文化を探し始めていた。私が探していたのは「東京」でも「成功」でもなく「自分にとっての沖縄」だったのかもしれない。1968年生まれの私は、1989年、20歳で平成を迎えた。東京で自分の居場所を探し、迷い、沖縄リバイバルを遠くから眺めていた大学時代。そして、その後の「失われた30年」を、私自身もまた生きることになった。2019年、私は50歳を迎えた。元号は平成から令和へと変わった。私の人生の中心には平成という時代があった。昭和に生まれ、平成に迷い、令和になってようやく、自分の故郷・沖縄を静かに見つめ直すようになった。若い頃は沖縄から離れたかったが今は、沖縄の古い写真を観て、街の歴史を調べ、映画『ウンタマギルー』『パイナップル・ツアーズ』『宝島』を見直しながら、あらためて沖縄という場所を考えている。あの頃は敗北だと思っていたが、平成の30年間が過ぎた今、その挫折があったからこそ、沖縄を以前とは違う目で見つめることができる。私は今も旅の途中だが、ようやく沖縄へ落としたマブヤー(魂)の在りかを探し始めている。あの日、沖縄を離れた私には見えなかった沖縄が、ようやく、少しずつ見え始めているのかもしれない。