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昭和の終わり頃、沖縄から東京に出てきた。

バブルの光はすでにピークを越え、街には「夢」「自由」「希望」といった言葉が氾濫していた。新宿アルタ前のスクリーンには、やさしい声で語りかける企業CM。誰もが「前向きであること」を求められ、「癒し」や「元気」という言葉が社会の合言葉のように響いていた。

けれど、そのやさしさはどこか作り物めいていた。街の広告も雑誌も、すべてが誰かの“言葉”でできていて、それを信じないと取り残されるような空気があった。糸井重里や谷川俊太郎のコピーが、若者の心を包み込む一方で、それは「やさしさ」を通じて消費を促す、ポエム資本主義の幕開けでもあった。

その頃の自分は、音楽とアルバイトに明け暮れていた。下宿の部屋には、ギターと安いステレオ、そしてCDと本の山。豊かさよりも、場違いなまぶしさに圧倒されていた。

「夢を持て」「あきらめるな」というコピーの数々は、励ましというより“ノルマ”のように感じられた。努力ややさしさが、誰かを追い詰める時代。それが平成初期の東京だった。

後になって辺見庸や佐野眞一を読むうちに、あの時代の空気がようやく言葉になった。「やさしい言葉の中に悪が居座っている」と辺見は言う。まさにそうだった。詩人の言葉でさえ、広告代理店に取り込まれ、消費の装置に組み込まれていった。“感じること”が、“買うこと”と同義になっていた。いま振り返れば、あの頃の東京は、やさしさが社会の通貨だった。だがそのやさしさの裏で、誰もが孤立していった。笑顔の広告の向こうで、働き詰めの若者が過労で倒れ、非正規雇用という言葉が生まれた。それでも街は「癒し」を歌い、「希望」を売り続けた。


台湾の写真家・鄧南光が日本留学中にライカのカメラと出会ったように、私はライカを持つことはなかったけれど、街の光と影のコントラストを、心のレンズで確かに見ていた。あれは幸福の裏側に潜む「やさしさの罠」だったのだと思う。平成という時代の始まりに、私はその罠の中で夢を見ていた。

(東京で夢を見た、平成最初の若者)