義和団の乱、簡易年表

1894年   大刀会、活動を開始
1897年 11月1日 山東省において大刀会がドイツ人宣教師殺害。数日後、ドイツが膠州湾占拠。
1898年 5月 義和拳、「順清滅洋」を旗印に教会・信者を積極的に襲撃。
1900年 1月27日 列強の公使団、清国に義和団鎮圧を強硬に求める。
3月14日 毓賢を更迭し、袁世凱を山東巡撫とする。
4月 袁世凱に弾圧された義和団、直隷省になだれ込む。
5月 義和団、北京へ到達。
6月9日 各国公使、自国軍の北京への援軍を要請。
6月19日 西太后、義和団を支持し西欧列強に宣戦布告することを決定。
6月20日 義和団、紫禁城の一郭にあった北京各国公使館を包囲( - 8月14日)
6月21日 清国、欧米及び日本の八か国に宣戦布告。
7月14日 天津、八カ国連合軍に占領される。
8月14日 八カ国連合軍、北京に到達し総攻撃を開始する。
8月15日 西太后と光緒帝、北京から逃亡。珍妃、紫禁城内の井戸にて死亡。
9月25日 義和団事件における事件の首謀者(清朝内)を発表。
10月8日 義和団事件に関する北京列国公使会議開催。
1901年 5月29日 清国、北京列国公使団の賠償金(4億5000万両)要求を受諾【当時1円現在一億円】
7月31日 八カ国連合軍、北京からの撤退を開始する。

義和団の乱を扱ったフィクション作品

戯曲
  • 老舎『神拳』「神拳」とは義和拳の源流の一つ。老舎は義和団との因縁が深い。彼は下級の満洲旗人の子として北京に生を享けたが、幼くして八カ国連合軍に父を殺されている。そのため幼少期は非常に苦労した。この戯曲には、老舎の義和団への思いが反映している。この他「吐了一口气」という作品も発表している[16]
小説
映画
  • 紅燈祭』監督:(原題:The Red Lantern、1919年、監督:アルベール・カペラーニ、主演:アラ・ナジモヴァ
  • 北京の55日』(原題:55 Days at Peking、1963年、監督:ニコラス・レイ、主演:チャールトン・ヘストン
    史実に反しアメリカ人とイギリス人が中心に活躍する。撮影はスペインで行われたが、数千名の中国人を出演させるため、映画会社はスペイン全土から中国人を集めたという。またチャイニーズレストランで働く中国人が多かったため、撮影期間中の数か月は、スペインのチャイニーズレストランがほとんど閉店したという話が残っている。この映画は、そのテーマ性から香港では1980年代後半まで上映は禁止されていた。上で触れた柴五郎も登場し、若き日の伊丹十三が演じている。主役はアメリカ人のルイス少佐である。
  • 八国聯軍』(1975年、製作:ショウ・ブラザーズ(香港)、監督:張徹、主演:傅声)
  • 『神鞭』(1986年、制作:西安電影制片廠(中国)、監督:張子恩、主演:陳宝国)
マンガ

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 毓賢、? - 1901。漢軍正黄旗の人。字は佐臣。買官(金銭によって官位を買う事)によって山東曹州の知府となったのを皮切りに、1888年按察使布政使を歴任した。1899年には張汝梅の後を受け山東巡撫となり、義和団対策に臨んだ。この時義和団に対し、融和的な施策を取ったことにより、義和団の勢力が増し、アメリカ公使コンガーの強い要請によって更迭され、袁世凱が後任の巡撫となった。ただ毓賢は罷免されたわけではなく、山西巡撫に就任。これは罷免を求める西欧列強に対する清朝の精一杯の抵抗であったといわれる。辛丑条約後、列強によって罪を問われ、この時点に罷免となった。その後新疆へと流される途上、蘭州で処刑された。『清史稿』巻465・列伝252より。
  2. ^ この場合の「洋」にはアメリカと日本も含まれている。
  3. ^ 董福祥、1839(あるいは1840) - 1908。甘粛省固原(現在の寧夏)の人。字は星五。1862年に陝西省と甘粛省に起きた 回民起義において反乱軍に参加した。しかし左宗棠の軍に投降して以後は、その配下として働き提督まで上り詰めた。1897年には北京防衛を任され、栄禄の配下となる。翌年に起きた戊戌政変の際には西太后を支持した。1900年の義和団の乱時には外国公使館を包囲し攻撃した。この時の攻撃は栄禄に比べると激しかったという。やがて北京が八カ国連合軍によって陥落すると、西太后が逃げるのを助けた。後に連合軍から戦犯の一人と名指しされて罷免され、失意の内に病死した。『清史稿』巻455・列伝242。
  4. ^ 列強への宣戦布告諸説。「宣戦布告」の真の理由については諸説あり、どの要素を最も重視するかという点で4つ説がある。一、「照会」説-偽造された列強からの「照会」に重きを置くもの。二、義和団の圧力があったとする説。三、天津において直隷総督裕禄が偽って列強に勝利したと上奏したことを信じ宣戦したという説。四、列強の度重なる帝国主義的圧力に堪忍袋の緒が切れたためとする説がある。
  5. ^ 端郡王載漪、1856 - 1922。愛新覚羅氏、つまり清朝の宗室出身。西太后の姪を妻とし、関係が深かった。そのため光緒帝を廃位しようとする計画、すなわち「己亥建儲」のときには、彼の子溥儁(ふしゅん)が大阿哥(=皇太子)に立てられることになった。しかし列強の反対などでこの計画は頓挫し、彼は列強を深く恨むに至り、それが義和団支持に結びついた。北京議定書締結後は、乱の責任を問われ流罪となり、子の溥儁も大阿哥の称号を奪われた。1917年頃北京に戻ったが、貧窮に苦しみつつ5年後に逝去。『清史稿』巻221・列伝8。
  6. ^ 聶士成、? - 1900。安徽省合肥の人で李鴻章とは同郷。字は功亭。1862年に淮軍に参加し、李鴻章のもとで太平天国や捻軍鎮圧に従事した。この後はフランス軍や日本軍と戦い戦果を挙げ、1897年に直隷提督に昇進した。翌年配下の軍隊は武衛前軍と改称したが、この軍は袁世凱の新建陸軍同様、近代化を図った軍隊であった。1900年、この軍を率いて天津防衛に当たるも、砲弾に当たり戦死。常に兵たちの先頭に立ち、「腹破れ腸出ずるもなお軍を指揮して前進させた」という。『清史稿』巻467・列伝254より。
  7. ^ 裕禄、1844 - 1900。満洲正白旗の人、喜塔臘氏。字は寿山、号は寿泉。栄禄から高い信頼を得る。30歳を少し過ぎたばかりで巡撫に抜擢され、以後湖広総督軍機大臣礼部尚書を歴任、エリート街道を歩む。1898年栄禄の後任として直隷総督兼 北洋大臣となった。『清史稿』巻465・列伝252より。
  8. ^ 計画では歩兵大隊六個、騎兵中隊、野戦砲兵大隊、工兵中隊の五千人規模の予定だったが、各国の動向に合わせて減らされ歩兵大隊四個、騎兵中隊、野戦砲兵大隊等の四千人規模で始まった。そしてさらに各国が削減したので1901年11月には歩兵大隊四個、騎兵隊、野戦砲兵中隊の千三百人程度に減らされた。

出典

^ a b 森山康平『図説 日中戦争』太平洋戦争研究会編、河出書房新社、2000年1月25日、初版、6頁。ISBN 978-4-309-72629-8。
^ a b 猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日、18-19頁。ISBN 4-12-101232-1。
^ a b c d 梅本可奈子 (2008年6月20日). “【今日は何の日】1900年:義和団、独公使を殺害”. Searchina. 2011年6月21日閲覧。
^ 島崎晋『名言でたどる世界の歴史』PHPエディター・グループ、2010年6月、294-295頁。ISBN 978-4-569-77939-3。
^ a b c d e 鈴木(1969)pp.435-437
^ a b 飯塚(2016)pp.42-43
^ a b 佐々木(2002)p.215
^ 佐々木(2002)pp.240-242
^ 山縣有朋『『北清事変善後策』』(レポート)、。「今回ノ北清事変ヲ機トシ、朝鮮全部ヲ挙ケテ我カ勢力区域ニ移サント欲シ、或ハ露ノ満洲経営ヲ妨ケルヲ約シ、以テ我レノ朝鮮経営ヲ諾セシメント欲スルアリ [読点は加筆者]」
^ 猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日、18-25頁。ISBN 4-12-101232-1。
^ 櫻井良樹「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) ―漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治―」第29巻、2008年、 doi:10.18901/00000407、 NAID 120005397534。
^ 日本外務省編『外務省の百年』原書房、1969、ISBN B000J9KFCA、日本外務省記録「各国ノ団匪賠償金処分関係雑件」。
^ Dominic Jellinek 2011.
^ Daisy Yiyong Wang 2013.
^ 桑原住雄 1967.
^ 渡辺安代「老舎『神拳』について:『義和団』「吐了一口気」との関わりの中から」『お茶の水女子大学中国文学会報』第7巻、1988年。

主な参考文献

  • 飯塚一幸『日本近代の歴史3 日清・日露戦争と帝国日本』吉川弘文館、2016年12月。ISBN 978-4-642-06814-7。
  • 佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』講談社、2002年8月。ISBN 4-06-268921-9。
  • 鈴木良「5 東アジアにおける帝国主義 五 日清・日露戦争」『岩波講座 世界の歴史22 帝国主義時代I』岩波書店、1969年8月。

この記事加筆に際し、参考にした文献は多数に上るので、以下には日本語のものを中心に挙げている。

史料

『明治三十三年清国事変戦史』参謀本部編、川流堂、1904年。
『義和団-中国近代史資料叢刊』中国史学会編、上海書店、2000年。
蒋楷『平原匪拳紀事』などを収む。
菅原佐賀衛『北清事変史要』偕行社、1926年。
服部宇之吉『北京籠城 北京籠城日記』大山梓編、平凡社、2003年。ISBN 4256800530。
守田利遠『北京籠城日記』石風社、2003年。ISBN 4883441016。
『義和団民話集』牧田英二・加藤千代編訳、平凡社、1973年。ISBN 4582802443。
ピエール・ロチ『北京最後の日』東海大学出版会、1989年。ISBN 4486010396。
ウィール(本名バートラム・レノックス・シンプソン)『北京籠城』清見陸郎訳、生活社、1943年。

研究著作

佐藤公彦『義和団の起源とその運動』研文出版、1999年。ISBN 487636172X。
エシェリック 張俊義等訳 (1994). 義和団運動的起源. 江蘇人民出版. ISBN 9787214012692
Joseph W.Esherick (1987). The Origins of the Boxer Uprising. University of California Press
ウッドハウス暎子『北京燃ゆ-義和団事変とモリソン』東洋経済新報社、1989。ISBN 4492060502。
G.N.スタイガー『義和団―中国とヨーロッパ』藤岡喜久男訳、桃源社、1967年。
G.N.スタイガー『義和団―中国とヨーロッパ』藤岡喜久男訳、光風社出版、1990年。ISBN 9784875190196。
斎藤聖二『北清事変と日本軍』芙蓉書房出版、2006年。ISBN 4829503785。
小林一美『義和団戦争と明治国家』汲古書院、1986年。ISBN 4762923346。
三石善吉『中国、1900年―義和団運動の光芒』中公新書、1996年。ISBN 4121012992。
佐藤清彦『奇人小川定明の生涯』朝日文庫、1992年。ISBN 4022607424。
富田昇『流転清朝秘宝』日本放送出版協会、2002年。ISBN 4140807008。
桑原住雄「山中商会盛衰記」『芸術新潮」 1967年1月号』1967年。
Dominic Jellinek (2011). “Provenance and Posterity: The Bluett Archive”. Orientations (Orientations Magazine Ltd) 24 (8). ISSN 0030-5448.
Daisy Yiyong Wang (2013). “Papa’s Pagoda in Paris: The Gift of the C. T. Loo Family Photographs to the Freer and Sackler Galleries”. Orientations (Orientations Magazine Ltd) 44 (2). ISSN 0030-5448.

関連書籍

『北京の嵐 義和団変乱記』立野信之 博文館, 1944
『義和団事件』小田岳夫 新潮社, 1969
『義和団の研究』村松祐次 厳南堂書店, 1976.8
『中国の歴史 近・現代篇1 黄龍振わず 義和団前後』 陳舜臣 平凡社, 1986
『義和団事件風雲録 ペリオの見た北京』菊地章太 大修館書店「あじあブックス」, 2011.2
『曠野の花 義和団事件 新編・石光真清の手記2』石光真人編 中公文庫, 改版2017
 

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、義和団の乱に関連するメディアがあります。

外部リンク

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