【間接中継転載】

 

 

 

 

夢曼荼羅のブログ

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貧困と心の貧しさは同じではない

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 『人々は貧しい。しかし、幸せそうだ』

 

 幕末から明治に、日本に来た西洋の外国人たちは、日本に来て驚きました。彼らにとって貧しいとは、道徳的堕落と同じでした。にも係わらず、日本はまったく逆でした。何処に行っても子供たちの顔は明るく礼儀正しい。どの階層も上下関係はあっても、皆が人間としては同じであるという意識を普通に持っていると。

 

 中には日本人を牛馬のように扱う西洋人もいたが、それには馬引きの人も怒り、その西洋人を道の脇の田畑に投げ捨てたという事件もありました。日本人はどんな職業にあっても、人間としては皆同じではないかという気持ちがありましたから、そういう事件が起きたわけですね。

 

 もちろん、日本社会も貧困者の溜まり場みたいな集落もあり、其処へ逃げ込まなければ明日の命もままならぬ運命の人もいました。しかし、それは何処の国でも同じで、日本だけが特別というものではありません。否、そういう人たちも礼節があり、某かの仕事をしていました。中には、『おもらい』(乞食)という職もあったようです。

 

 そのような集落があったのも確かですが、そういう場所が危険視されていたわけではありません。何処に行っても人々は礼節があり、謙虚でした。これが他国であれば立ち入り禁止の危険区域なのですがね。というよりも、そういう場所の人のもとを訪れれば、特別なほどの礼儀のおもてなしも受けました。それは『私のような所までいらっしゃって下さり、まことにもったいないことです』という気持ちが礼節に現れていたからです。これは昔河原乞食と呼ばれた芸能の人たちの挨拶の作法にも現れています。

 

 金持ちは高ぶらず、貧しいものは卑下しない。社会的格差はあっても、人間は皆同じではないかという信じる心が社会の隅々まで浸透していたのです。特別な場所、例えば山奥のタコ部屋みたいな所は、どうだったのかは分かりませんがね。

 

 世界で極楽に一番近い国は日本かも知れませんが、それも終わりに近づいていますね。日本人の心根が、占領憲法と精神の共産主義運動、グローバル化、新自由主義によって腐臭を放ち始めて来たからです。