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山下金塊 М資金 

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そのまんま信じなきゃ、名無し先生説、匿名党さんやコブラ説と照合作業の参考にはなりますね。

ハプスブルク、世界王族マンセーな、金融ワンワールドの、落合史観がベースですが。Φ(;´π`)φ

 

國體の南島経略と山下財宝、M資金(総集編)

https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12524334744.html

1、國體が古代から目論んだ南島経略

 

戦前まで、日本がフィリピンなどに秘匿していた黄金を、巷では山下奉文将軍に因んで「山下財宝」とか、皇室の金庫番であった秩父宮のニックネームに因んで「黄金の百合」などと称し、その所以について「日本がアジア諸国から略奪した(高橋五郎)」とか、「昭和天皇がこれを獲得、蓄財目的で戦争を起こした(鬼塚英昭)」とか、「ロスチャイルドに日露戦争の借金返済を迫られ、やむをえず戦争を起こし略奪をした(宇野正美)」などという他愛のない捏造話が依然として後を絶たないので、ここでその真相と背景をなす古代からの日本の「南島経略」について、5回に分けて解説する。

 

 先島諸島、台湾、そしてフィリピンと連なる國體の「南島経略」は、富国強兵を行った応神朝の跡を継いだ天平時代の欽明朝の国際化戦略として始まるが、この中心人物は聖徳太子であった。

 

天平時代には支那も北と南に分かれており、南の江南地区の中心が揚州と建興で、揚州は内陸にあるのに港湾貿易で隆盛し、そこから船に乗って来日したのが鑑真である。

 

マニ教僧の鑑真は、4回も難破しながら日本にやってきたが、その目的は中国江南地方で蓄積した黄金を日本に運ぶことにあった。最後の航海では1 年くらい、海南島の大雲寺にいたが、運んできた黄金は日本へ持ち込んだ。

 

ところが、このような動きが伝わって徐々に日本列島に黄金の匂いがし出すと、日本が狙われ始めたので、金箔が塗られた奈良の大仏や平泉の金色堂、金閣寺を作ったり、名古屋城の天守閣に金の鯱(しゃちほこ)をつけたりして、いかにも日本に黄金がありそうに偽装する一方で、リスク分散と将来の東南アジア地域開発の目的で、列島内にあった黄金の多くを日本から南島に移す経略が実行される。

 

これが「南島経略」で、南島、すなわち沖縄諸島、八重山諸島、さらに小琉球の台湾、その先のルソン、ミンダナオ、マレー半島、タイ、ベトナムにまで國體黄金を運び、分散して秘匿した。

 

古来からこの地域は日本領だったが、そこに欧州ハプスブルク家(神聖ローマ帝国)へ入っていた伏見宮治仁王の一統がやってきてマラッカ王国を建て、つぎにルソン、ミンダナオなどに入り、フィリップ 1 世の名前を取ってフィリピンとした。

 

ところが、いよいよ黄金を使う時期になった頃、ポルトガルが先行してきたので、これを追放するためスペイン・ハプスブルク家はポルトガル人のマゼランを買収して黄金を護らせようと、セブ島の小さな島の王に関与して殺されたということにして偽装死させ、そのままフィリピンに永住させた。

 

ちなみに、戦後30年経ってルバング島で発見された陸軍中野学校出身の小野田寛郎特務少尉は、マゼランに代わって黄金を守っていたという。小野田氏発見以後、笹川良一が日本人観光客向けのリゾート開発と称して重機を持ち込み、大規模に掘削したが結果は非公開である。

 

 

一方、戦後、伏見宮の係累にある青山光子が、ハプスブルク家の執事だったリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーに嫁ぎ、クーデンホーフ・カレルギーは青山が持ち込んだ國體黄金を用いて、戦後EC、そしてEUを作った。

 

2、“マレーの虎”山下奉文の派遣

 

 

欧米列強のアジア進出が始まった近代に入って、ケルト系(ウバイド系)スコットランド貴族出身(欧州大塔宮)のD・マッカーサーの父アーサー・マッカーサー・ジュニアは、米西戦争でフィリピンに出征し、そのままフィリピン総督に任じた。

 

その後、米国は大正10年から日本を仮想敵国とした「オレンジ計画」をたて、1922年にD・マッカーサーを縁の深いフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命、着任させるが、それはもちろん國體黄金の管理に当たらせるためであった(アルザス経略)。

 

ところが、1941(昭和十六)年12月、日米戦争(太平洋戦争)が始まった。この戦争の本質と敗因についてはすでに「近衛文麿」や「国共合作」のところで述べたので繰り返さないが、ガダルカナル島からの撤退を機に日本の敗北を確信した國體天皇・堀川辰吉郎は、1944年(昭和19年)9月26日、“マレーの虎”としてシンガポール攻略戦の成功で世界に名を馳せた陸軍大将山下奉文をフィリピン防衛のための第14方面軍司令官として派遣し、マッカーサーとの戦いが始まる。

 

当初、山下は善戦したが、飛来する米軍機の数が減らないことから、情報参謀の堀栄三中佐(戦後は自衛隊陸将補)が海軍のパイロットを個別に聞き取り調査した結果、海軍が発表した「台湾沖航空戦」の大戦果(空母19隻撃沈など)が虚報であることを突き止め、航空戦力が効かない山岳地帯の多いルソン島での決戦を主張するが受け入れられず、海軍や瀬島隆三ら大本営作戦課が指示するレイテでの決戦を強いられたため、凄まじい空爆と艦砲射撃に晒され6万人を失う。

 

また、山下はルソン島でも、民間人が集住する首都マニラでの戦いを避け、バギオなどの山岳地帯に主力を移すが、海軍部隊(陸戦隊)があくまでマニラでの市街戦を強行したため10万人の市民が犠牲となった。

 

ともあれ、國體が山下をフィリピンに派遣した目的は、國體黄金の所在を確認し、国際金融勢力による収奪から守ることと、管理権と引き換えに昭和天皇を守ることであった。そして、実はマッカーサーとの戦いも國體黄金を安全に移管し、戦後のアジア諸国の独立に役立てるための“八百長戦争”だったのである。

 

一方、大本営参謀だった辻政信と、満洲映画理事長だった甘粕正彦も、シンガポール攻略戦の際、自転車を使った「銀輪部隊」を考案してマレー半島南下を迅速化し、山下奉文を助けたことから緊密な仲にあり、山下の指示のもと連携して黄金の管理と周辺国への移管に従事した。

 

 

3、生きていた山下奉文

 

時代は一気に下るが、戦後、元大本営作戦部第一部長だった石原莞爾は、東京裁判の特別版として酒田で法廷を開いて、「本人は膀胱が悪いので歩けない」と言ってリヤカーに乗り、それを大山倍達氏に引かせて、酒田小学校の講堂で証人尋問が行われる。

 

石原は、「戦勝国に敗戦国を裁く権利などない」「戦後事後法による遡及的処罰は罪刑法定主義に反する」「トルーマンを呼んでこい」「原爆投下の責任をとれ」などと言いたい放題で、かつ、満州事変の実質的な最高責任者でありながら不思議なことに責任を追及されることもなく無罪となり、代わりに板垣征四郎が有罪とされた。石原はその後、すぐに膀胱がんで死んだとして偽装死し、秘かに古代から日本の“飛び地”であるタイに行く。

 

 

一方、元憲兵隊長で満洲映画理事長だった甘粕正彦も終戦時、満洲で死んだといわれているがこれも偽装死で、アヘンを飲んで全身麻酔をかけ仮死状態になり、二十四時間以内であれば蘇生する方法をとって日本に帰ってきた。

 

そして、麻布か六本木の川崎ハウスに住んだあと、もう一回偽装死した甘粕は緊密な仲である石原をすでに満洲時代に吉薗周蔵に紹介していた。というのも、甘粕は元帥陸軍大将・上原勇作直属の諜報員であった周蔵の中二階にある上官で、甘粕は、上原がフランス留学中にアルザスのポンピドーというフランス人の娘と秘密結婚してできた娘ジルベールを妻とし、甘粕は上原の娘婿になっていたからである。このことは『吉薗周藏日記』に記されており、その石原を海外へ派遣したのは事前にマッカーサーと話がついていたからである。

 

その甘粕が行ったところはフランス語圏のベトナムで、そこに石原のほか元大本営参謀で参議院議員だった辻政信が突然「戦死した戦友の慰霊の旅に出る」といって失踪したことにし参加、さらに、同じく大本営参謀だった服部卓四郎も加わった。

 

 

これに対し、住民虐殺の罪で死刑宣告がなされていた山下奉文は、「マンゴーの木に首を吊るされ殺された」とされているがこれも偽装死で、マッカーサーと打ち合わせたうえ、國體黄金の東南アジア諸国への移管を密かに指揮していた。

 

ちなみに、ミンダナオにあるダバオの市長は長年、日系人が務め、大統領だったマルコスとアキノも日系人で國體黄金の管理をしていた。また、現在の大統領であるロドリゴ・ロア・ドゥテルテは黄金の管理を職掌とした呂(秦)氏の末裔である。

 

このうち、マルコスについていえば、戦後、フィリピン人のロゲリオ・ロハスという錠前師が、日本軍司令部のあったバギオの地下壕で重さ1トンの黄金の仏像と数千の金塊を見つけた。  

 

話を聞いた当時のマルコスはこの件の扱いについて話し合うため、1968年に軍のチームを日本に派遣、昭和天皇の従兄弟に会って「日本はフィリピンに少なくとも1000億ドル以上の黄金を隠した。それを全部掘り出すためには1世紀以上かかるだろう」という話を聞く。 

 

実際、私の友人もGPSで隠し場所の一つを探し当てたが、14メートル掘ったところで日本軍が仕掛けた厚さ1メートルの地雷が敷設された人口岩盤に阻まれ、掘削を断念したと証言している。 

 

一方、これを聞きつけた国際金融勢力は「マルコス革命」を画策してマルコスを追い出し、死後、裁判でイメルダ夫人から約二兆円分を収奪したことはかつて報道されたとおりである。

 

 

4…シベリア黄金とマレーシア航空370便について

 

ところで、ここで時代は遡るが、國體黄金は帝政ロシアにも存在したが(シベリア黄金)、革命勢力、さらには国際金融勢力からの収奪を逃れるため、日露戦争当時、秘かに日本側に引き渡された。

 

上原勇作が満洲に送り込んでいた國體工作員『石光真清の手記』によると、大正六(一九一七)年十二月十一日、石光は関東都督府中村雄次郎中将から、シベリアでの諜報活動を命令される。

 

革命のただなかのシベリアに入った石光は、アムール州の州都ブラゴヴェシチェンスクで在留日本人による義勇隊を指揮して、赤軍ボルシェヴィキを撃退したところ、白軍のコサック兵がブラゴヴェシチェンスクの国立銀行から三千万ルーブルの金貨、砂金を運んできて、アムール川(黒竜江)の対岸黒河鎮のロシア領事館に保管したことを知った。

 

黄金には市民の貯蓄も含まれていたため、そのすべてをボルシェヴィキ(革命勢力)に持ち去られることを恐れた市民自警団とコサックは、ボルシェヴィキに武装解除されていたこともあって、石光に支援を求めてきたのである。

 

「黄金は、ホルワット将軍を首班としてハルビンに樹立された白色政権に渡せ」との市議会の議決が行なわれたこと、荒木貞夫中佐がホルワット政権の軍事顧問として入っていたことを考慮して、石光は大正七(一九一八)年四月三日、百五十万ルーブルだけを残して、黄金を白色政権に渡すことを了承した。

 

荒木貞夫は、これに先立つ大正四(一九一五)年六月、参謀本部出仕・ロシア出張を命じられていたが、この間、ハプスブルク大公家の私奴婢で英国軍需大臣チャーチルから面会を求められ、ロンドンでロシア皇室の黄金の取り扱いについて話し合いが行なわれた。

 

第一次大戦中、ロシア側の軍人だった荒木は一時ドイツ軍の捕虜となったあと釈放され、大正七(一九一八)年一月、参謀次長田中義一中将からシベリア満洲駐在を命じられたが、田中の裏には参謀総長上原勇作大将がおり、荒木自身もハプスブルク大公家の係累だった関係で上原の死後、その地位を継いだ。

 

そして、ハプスブルク大公の上にはワンワールド國體の最高首脳、すなわち國體天皇堀川辰吉郎がいた。

 

 

なお、世間では “シベリア黄金 ”といえば「コサックの黄金」とみているが、「ブラゴヴェシチェンスクの黄金」はこれとは全く異なり、前者が百六万円相当なのに対し後者は二千八百五十万ルーブル(当時の邦貨で約三千万円)にものぼり、このことは石光が『手記』のなかに記録している。

 

いずれにせよ、その後ホルワット政権が霧消したため莫大な黄金は國體参謀でもあった上原勇作の管理下に入り、そのうちの約四分の三の二千百五十万ルーブル(邦貨で約一億円)は、石光真清から貴志彌次郎を通じて満州国の建国資金に充てられ、残りの約四分の一の七百万ルーブル(邦貨で約三千万円弱)は、他の陸軍高官の「政治資金」として用いられた。

 

具体的には、田中義一が、政友会の高橋是清が総裁時代につくった負債三百万円に当て、また『周藏手記』によると、残り四百万円を上原、田中、宇垣(宇垣一成)、山梨(陸軍大臣山梨半造)の四人で分けたようである。

 

 

 

なお、日露戦争における日本海海戦で、バルチック艦隊と共にやってきて対馬沖に沈んだナヒモフ号にもロマノフ王朝の黄金が積載されていたが、笹川良一はこれも引き揚げたことは、当時、現場で実際に作業に当たっていた私の知人から直接話を聞いている。つまり、バルチック艦隊のアジア来襲には、黄金を運搬するための“八百長”だった側面がある。

 

國體黄金の移管には、これを世間の目からカモフラージュするために大きな事件が前後に起こされるのが常であるが、2014年3月8日に消息を絶ったマレーシア航空370便も、インドへの國體黄金の移管から世間の目を反らすための偽装工作で、跡形もないのはHAARPが使われ、プラズマ化(非物質化)したからだと仄聞している。

 

5、“M資金”話の真相

 

また、昭和21年4月6日に、GHQのE・ニールセン中尉らが、東京湾月島付近の海底から金塊千本と、プラチナ塊二百本を発見、回収した事件があった(東京湾金塊事件)。これはベトナムの王族から返還されたものだったが、裏天皇・堀川辰吉郎の尽力で奪還した。 

  

更に北海道美幌の自衛隊基地(旧海軍航空隊基地)の地下壕には、シベリア出兵時にロマノフ王朝から返還されたダイヤモンドで飾られた王冠やルビー、サファイア、金塊等約400兆円がかつて保管されていたという。

 

ただ、これらは一部に過ぎず、日本列島には古来より応神天皇や秦氏らが、ウバイドワンワールドの東極の羅津から持ち込んだ砂金や、護良親王が「散所経済システム」や海外との交易で稼いだ資産、徳川幕府滅亡後、勘定奉行・小栗上野介から返還された埋蔵金等があり、日銀の地下三階金庫などに保管されているときく。 

 

ともあれ、目下、公式な推計によると、世界にある金の埋蔵量は約24万トンで、このうちすでに利用されているものは18万トンである。

 

にもかかわらず昨今、ジャーナリストを自称する板垣英憲(元毎日新聞記者)らが、金額にして4京円、総量で800万トンの黄金があり、その管理は「吉備太秦(きびのうずまさ)」という國體資産管理人の手のもとにあるなどと架空の話を作り、その突拍子もないタイトルで自著の販売促進に利用しているようである。

 

 

が、現在、國體資産の管理は、維新の三卿・中山忠能とその子・忠英が作った、護良親王とゆかりの深い戦前の「大日本皇道立教会」を引き継ぐぎ、昭和天皇からも絶大な信頼を得ていた日蓮宗系巨大宗教団体の“名誉会長(出自は南朝皇統)”と、窓口役の國體参謀“某”有名建築家に委ねられていることから、すでにこの話は破綻している。

 

そこで調べてみると、この話の背後には小沢一郎とその息のかかった地球維新天声会議の白峰幽朋なる怪しい人物がいて、安倍政権と日本皇室を貶める工作の一環として撹乱しているということであった。

 

 

ところで、「山下財宝」や「黄金の百合」と言えば、今もって巷に流布されるいわゆる“M資金詐欺”がある。“M資金”のMの由来については、D・マッカーサーやGHQ経済科学局のウィリアム・マーカット二―のMだという説もある。

 

が、真相は、かつて“財界四天王”と呼ばれたフジテレビ初代社長で、日本共産党の機関紙「赤旗」の初代編集長だった水野成夫(みずのしげお)に由来している。

 

もちろん“詐欺”というくらいであるからほぼすべて架空の融資話なのであるが、融資実行の条件として経営トップの個人口座に1~2千万円の現金を入れ、通帳と共に印鑑を預ける結果、まんまとその預金を抜き出されるというのが典型的な手口である。

 

ただ、戦後、実際に國體資金が融資された事実もあり、例えば、本田技研工業や松下電器産業(パナソニック)、京セラなどの将来性が見込まれる優良企業には返済不要の資金が投入されたと聞く。

もっとも、「返済不要」なのは事実だが、株式上場によるキャピタルゲイン(譲渡差益)によって資金の回収が図られているという。

 

一方、國體資金は日本だけではなく韓国でも投入され、國體参謀だった大徳寺住職・立花大亀から國體工作機関・統一教会を通じてサムスンやロッテにも入っている。

 

この他、1951(昭和26)年8月に設立された國體企業・日本航空にも投入されたが、1976年(昭和51年)7月27日に発覚したロッキード事件では、航空機購入先をグラマン社からロッキード社へ変更した社長の若狭得治を追い落とすため、“M資金詐欺”が使われたと聞く。

 

このように“M資金詐欺”には国際金融資本が関わっている場合があり、この導入に反対した旧国鉄総裁の下山定則は、1949(昭和24)年7月5日、出勤途中に失踪、翌7月6日未明に死体となって発見されるという事件(下山事件)が起こった。

 

ただ“M資金詐欺”の中には、本当の國體資金融資を秘匿するため、宮内庁、大蔵省、裁判所が連携してあえて偽装工作として行っているものもあるらしい。

 

いずれにせよ、実際に國體資金が投入されるときは、日本興業銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行などの長期金融機関を通じた大口融資の形をとり、中途半端な金額で直接現金がやり取りされるケースはない。

 

また、皇統に属するか、それに準ずる一族(ウバイド系)でない限り國體黄金に関わることは古代より許されておらず、むやみにこの掟を破る者は消されると聞いている。なお、笹川良一は國體参謀として関わることが許されていた。

 

したがって、現在も“M資金話”に振り回されている名もなき個人が数多いるが、皇室との関係を仄めかすような“胡散臭い個人”が持ち込む融資話は「100%詐欺である」と認識し、乗せられて出資をするなど以っての外で、早く目を覚ますことが身のためである。

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