例えば私の場合、自分のことを「いい人」だと信じている自己イメージがあると、かなり前に気づいた。

実際は決していい人ではない。
どちらかというと、悪知恵が働くほうだろう。
それを、他人からいい人だと思われている、期待されていると信じ込もうとしているフシがあることに気づいた。

しかし実際はいい人ではないので、それを演じることにストレスを感じていたのだ。

私が見てきた社会的に成功した人々は、自分のことをいい人などと思い込もうとしていなかった。
いい人として振る舞うのは、それが自己の利益になるからだと目的のために割り切って演じていた。

実際の自分は、他人より自分の利益のために働く人間であり、それを当然のことと受け入れ、いい人が自分の本質であるなどと無理に思い込もうとしていなかった。

若い頃ワルだった人は、他人からいい人だと期待されることもないし、本人も自分はいい人なのだと思い込む必要もなかった。むしろ自分中心に考え行動することで、他人から嫌われ疎まれる存在だと認識していただろう。
そして自分中心で行動することが当然であり、経験を重ねることで「紳士的に振る舞ったり、良い人として振る舞ったほうが自分の利益に繋がる。目的達成に繋がる。だからそのように振る舞ったほうが得だ」と学んだのだ。
それは自分自身がいい人になるということではなく、あくまで自分の利益を追求する自分のイメージは変わらずに、それを果たすための方法として「いい人として振る舞う」ことを選択しているだけだ。

要は表と裏があるのである。
しかし、それは世界の本質を理解しているということだ。
表裏があってはよくないという洗脳は、世界の本質を見ていない。基本的に人間を含む生物は、自己利益のために行動するものなのだ。これは人間が決めた善悪という価値観以前の問題であり、生物が生まれながらに持っている本質なのだ。

よい人を演じて振る舞うのは、決して人間の本質がよい人だからではなく、より効率的に自己利益を追求できるからだ。

より効率的に自己利益を得られる社会(コミュニティ)というものを人間が作り出し、その社会を機能させる為に個々の人間同士の協力が必要だからと、人間が頭で考えて後から作った「善」という概念なのである。

大事なことは社会で問われるのは、あくまで行動であり、発する言葉であり、目に見える態度なのである。心の中までは誰も覗き見ることはできない。

「自分はいい人だ」と思い込んでいることに気づき、「自分はいい人なんかじゃなかった」と認め、それが生物である人間として当たり前の事だと受け入れた時、とても心が軽くなり気分が晴れる感覚を覚えるだろう。

それは、人間という種が生まれ持つ本質に沿っているからだ。本質を否定せず、本質に抵抗していないからだ。
自己の本質と調和しているのだ。
概念に縛られて、自分の本質を抑圧していないからだ。

人間は自分中心の本質と調和しながら、社会の中でも「行動によって」調和することが出来るのである。