現実の何物にも影響されない、圧倒的な精神の自由と開放感。そして幸福感。
これは、物理世界からの影響で発生しているものではないことは確かだ。
物理世界を作り上げる精神が、物理世界の影響下にあるということは道理的に考えてもおかしいとわかるので当然だろう。
物理世界を知覚する前に、存在している感覚なのだ。物理世界に影響されないということは、すなわち、思考や意識とは関係ない領域で発生しているものである。
意識や思考は、その圧倒的な自由と開放感を感じとっているに過ぎない。
そして、意識や思考は、絶対的な心の平和と安心感と強さを自由に作り出す精神の自由、開放された状態に沿った選択をする。思考や意識は、それ以前に作り出された絶対的な精神の自由の状態に従っているだけなのである。

意識や思考によって、絶対的な精神の自由と開放感を味わうことはできない。
たとえ物理世界で嬉しいこと、楽しいことがあったとしても、それによる精神の高揚や心地よさは一時的なものだ。
どんな高級外車に乗っても、気持ちはすぐに慣れてしまう。

富豪でも自殺する人もいる。明日をも知れぬ生活をしていても精神が自由で尽きることのない歓びが内面ならこんこんと湧き出ている人もいる。

チベット仏教に帰依して出家したフランスの元教師の方の脳の働きを調べたところ、瞑想によって幸福感を脳の中で作り出していたという科学的実験結果もある。具体的には脳の前頭部左側の活動が活発化していたということだ。
幸福感や精神の自由、物理世界を知覚した際の反応の基準は、物理環境に依存せず、純粋に自らの内側で作り出すことが可能なのてある。
それこそが、物理世界を創造するパワーなのだ。
このフランス人僧侶も、元々最初からそのような脳の使い方が出来た訳ではないだろう。
瞑想を繰り返すことによって、脳の幸福を司る部位の活性化をコントロールするスキルを後から身につけたのである。
その状態は、意識や思考では獲得できない。
人間の目が己の目を直接見ることができないように、脳の根源的な働きを、表層意識や思考で理解することは不可能だからだ。
意識や思考は、その根源的な脳の働きと、そこから生まれるパワーに付き従っているだけなのである。

物理世界で知覚した物事を評価し、判断し、選択するのは意識や思考の働きである。
しかし、意識や思考は根源的な脳のパワーに従っているのであって、いわば、内的で根源的な脳の働きが、物理世界に対応するために表に出てきた枝の先と言える。
枝の先をいくら変えようとしてもだめである。
次々と根源の根や幹から、木は伸びてくるからだ。根源である根や幹の状態を変えれば、枝の先も自然とそれに沿って変化するのは自明である。

根源からの精神の開放状態と程遠ければ、どんなに豪華でお金をかけた旅行に行っても気持ちは晴れないであろう。精神の開放状態であれば、貧乏旅行であっても楽しめる。
タバコや砂糖などに依存している人も、精神の自由と開放状態になれば、それらに頼る必要も無くなるだろう。精神の自由と開放を得た人にとって、それらはなんの恩恵ももたらさないからだ。

人間の幸福感を司り、さらには記憶などの神経ネットワークのハブ空港の役割をも果たしているのが、脳の楔前部(けつぜんぶ)と呼ばれる領域だ。
この部位は、何も考えていない状態では活性化し、複雑な計算などをしているときには活動が低下する。
瞑想などによって思考や判断を抑えることで楔前部の活動が活発化し、脳の根源的な幸福感を得るというのは理にかなっているだろう。
散歩に出たりした時やトイレに入った時にアイデアが降ってくるという話をよく聞くが、それも煮詰まった思考を一旦放棄することで、楔前部の活動が活発化して記憶のネットワークの再構築が行われた結果だと考えると道理が合う。
乱暴な言い方だが、例えば脳の思考領域に障害があるダウン症や知的障害の人は、考えるという能力が弱いために、楔前部の活動が活発化して健常者よりも幸福感を感じている可能性もある。
深い思考ができる人ほど、そして深く考える思考の癖がある人ほど、楔前部の活動が低下して幸福感を感じづらいのではないかとも思われる。
思考によるロジックを追求する小説家などに自殺者が多いのもこのためではないかと推察する。

しかし、幸福感も、深く考える能力も、どちらも必要なものである。
どちらも有効的に活用するには、「何も考えない時」と「深く考える時」の見極めをし、そのタイミングで脳の考える、考えないのスイッチをコントロールする必要があるのだと私は考察している。