コットン綿から糸、生地の生成、加工製造は投資効果が最大化後、労力低減、投資回収効果は最大化され、持続化する。種まきをすると人為的な産業へ組み込まれ、種まきだけだと落穂ひろいのような宗教性「皆まで拾うな」収穫は恩恵(神秘性)が孕み、忌み嫌う点は神秘性の孕む恩恵のテイク、撒くという労働は桃源郷的ではない、収穫は投資効果。撒いた種が実ためには神秘的な力が影響しているから、宗教的に桃源郷的要素は分け与えなければならない。母は栽培、父は山菜取りが趣味でした。栽培は一粒一粒種を均等間隔で植え、山菜取りは自然のものを採集しますが、労力相違、投資回収は労働的、採集は桃源郷的、労力は収穫のみ。桃源郷の桃や林檎、果樹園以外採集なので、ギブという何らかの社会的行動、を社会性みたいにいいますが、基本的にはテイクだけが採集が主流だとして、投資をして回収するまでは赤字の状態を続け、継続して黒字を迎え回収していきます。一定程度労働を投じて投資効果がでれば労力は低減していきます。いつしかギブという点なくテイクだけという行動に利己的な個々人は功利主義的に陥っていきます。社会性と呼んでいることとは投資することであり、回収効果を将来に位置付けるということですが、これらを人間的であるとよび、同様に動物的本能的な功利主義的テイクに関しても合理的人間性を認め、どちらも人間性を重んじた行動で社会的な人間性です。投資をしなければ人間でないというわけではなく、野性的本能で投資利潤を求めることも合理的人間の人間性です。初期投資をしたか、していないかによって社会性がないと呼ぶことがありますが、功利主義的人間性はテイクに重きを置く人間性です。私たちは強制された社会性を身につけなくてはならないとは言っていませんし、社会性とよばれるところ往々にして、獲得が長期的投資か短期的投資かいずれによったものかという違いに終始します。いずれも利己的な行動であり、功利主義的であることに違いがありませんが、恩恵主義(神秘的)桃源郷的なものを人は求めやすいため、労力なく獲得することを禁断、怠惰、宗教的には罪。ぶどうは果実でそのままでもいただけますが、ワインの化学反応が大分神の恩恵みたいでビオディナミという有機栽培のワイン醸造で土壌改良で蔑視かとも思うメスの角に堆肥を入れて、月の満ち欠けであるとか、満潮干潮であるとか、天体がどうのでカミオカンデであればまだいいですけど、雨乞いじみて神秘的な超越性とかいいだして大分恩恵みたいなのは嫌ですね。メスの角に入れる理由は不明瞭です。ジョージア・オキーフ的で、花の画家といって兎の遺体も鍋横に描いてますが、お花描いていて究極女性性、船だとか海だとかをSHEといって、タイタニックでも大分女体の話題の後沈没させ投資回収、必要最小限に費用が抑えられ、合理的。イブ・ヴァビッツとトイレとの組み合わせ、貧乏なディカプリオ、人命駆除的に思えますが関心がないレイヤーがあるということで合理的沈没です。ドリカムの沈没船モンキーだったら愛でしょうが、禁欲(金)・肉欲節操が宗教的には罪で、酩酊状態、認知能力低下であれば錯誤・誤認でしょうか。

竹林七賢人のレリーフが南京に会葬として描かれていますが、特徴的なのは樹木で銀杏、松、柳(死の象徴)、桐と賢人の間に描かれています。賢人ということで精神的に優れている、俗世間を超越した、音楽・銘酒を嗜み、精神を重んじるという論壇、カフェーな空間を愉しむことが時空を感じる、会葬なので死を連環の一部ととらえる東洋思想を表していて樹状に広がる生命潮流のようです。たまたまキャメロンのアバターを視聴して、タンカレーを買いに行って金融街を思い浮かべながらボンベイサファイアを手にして、ジェルの付け替えでタイタニックが話題で、インスタに翠の広告でインプットがあったりすると購買履歴を気にしますが、ボンベイを手に取ったのはカメラのない個人店でこの連綿とした海綿状の樹状の連環が潮流というか、何か誰かが作為で翠を手に取らせたんじゃないかという錯覚に陥りますが、ジンってことで何も関係はないんですけど、海みたいな連想ゲームで、あーだれかが脳に悪戯しているんではないかという(カラーバス効果を感じやすい)、もどかしい自己が、だれかが、自己なんてないみたいな嫌がらせをしてくるという侵入を阻止できない社会性なんて嫌で、ボンベイの澄み切った水色のボトルを手にしつつ、海がー樹状突起がー金融がーサファイアがーキャメロンがーなんで翠がこの色なのかー(今日は翠を手にしながら)、鳥のわりに海で、なんで赤じゃないんだというもどかしい気持ちになります。コットン、糸、生地、縫製みたいな人工的な神秘な恩恵が入り込む物事がいいかどうかです。アクリルがいいです。

 

人間本性

ヴィルヘルム・ディル タイは、法則性を重んじる因果によった自然科学と人間の歴史的生活の理解をもとにした人間科学とを区別したことで有名。人間の経験の社会的・文化的次元を捉える科学の構想に対して因果的説明では限界がある。賢人同士のインタラクション(営為)とは主観的精神性を高めた、ヘーゲルのいう客観的精神に他ならない。人間の行為の及ぶ範囲、外的に表現して作り上げる領域に対して世俗主義を嫌い隠遁生活活ともとらえられる空間にお いて、清談、絶対的精神と呼ばれる芸術・ 哲学・宗教に関わる内省的領域にも批判的精神で臨んだ。ディルタイは、人間の本質は人間が繰り広げる営為(客観的精神)から 接近できるという構想を持っていた。

 

神や恩恵、恐怖を覚える社会性、宗教精神がときどき恐怖(回収という恐怖略奪ではないかどうか)嫌悪です。多くは社会に陥るということなんですが。貶められた自己がまともな合理的経済人ではないところが、動物かってことです。

 

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